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2008年9月 4日 (木)

取材する側とされる側

ある若者向け雑誌の取材を受ける機会に恵まれた。

取材をしたことはあっても、されたことはない。

昔、新宿駅西口広場で同僚と待ち合わせをしていたら、テレビ番組のインタビューを受けたことがある。そのとき、番組スタッフは、その他大勢のインタビューに回っていたが、オンエアされた番組では、ほとんどオイラのコメントが中心に構成されていたらしい。

これは、取材と似たようなものだが、行き当たりばったりの内容だ。

今回は、テーマもハッキリしていたし、こちら側の伝えたいことも明確だった。

ところが。

今日、出来上がった雑誌を見てみたら、オイラの思惑とはかけ離れた内容となっていた。長々とオイラのコメントが入っているが、使われ方が本来の趣旨とは違う。事実関係に間違いもある。

ライターは当初から迷っていた。彼は、かなり思い込みで立てた仮説を前提にオイラにコメントを求めてきたが、出会って数分でそれが間違っていることを指摘してしまった。

ここから、彼の混迷は始まった。

企画自体、編集のGOサインが出てしまっているので、今更ぽしゃりましたってわけにもいかない。どうにか、別の視点からネタにならないか四苦八苦していたようだ。

だが、最初の問題提起が崩れてしまったから、どんなに頑張ってもぎこちない記事になってしまう。

入稿前に記事をチェックしたとき、あまりにも無理な論理展開だったので、オイラのコメントの内容を、少し書き換えてみた。その内容は、オイラが本来伝えたかったこととは違っていたが、そうでもしないと、記事全体が空中分解しそうだった。

ライターが恥をかくならともかく、コメント欄のオイラまで共犯にされてはたまらない。

今日、出来上がった記事を読むと、最初よりはかなりまともだったが、かなり無理な記事に仕上がっていた。

思わず怒鳴り込もうかと思ってやめた。コメントの一文、一文は、切り離せば確かにオイラがしゃべった内容だからだ。つなげ方が無茶苦茶で、ライターの思い込みで構成されているから、読者に伝わる内容は無茶苦茶だが、間違っているかというと、目くじらを立てるほどの間違いでもない。

取材って難しい。

ふと、オカルト作家・秋庭俊先生の著作を思い起こした。

秋庭本に登場する取材先って、同じ思いだったんじゃないだろうか。誠実に丁寧に取材に応じたが、その結果は、「明確な答えはなかった」とか「政府は隠している」などと書かれる。ライターの都合の良いようにコメントを切り取られ都合の良いように使われる。

おそらく、オイラを知っている人がその記事を読めば、笑ってしまうだろう。

でも、取材って、そんなもんじゃないだろうかとも思う。

ライターは、ライターの書きたいことを証明するために取材をする。伝えたいことが伝わるには、相手の理解力が必要だ。

秋庭先生なんて、はなっから相手の話なんて聞くつもりがないから、コメントの都合の良いところしか使わない。

そこまでひどくなくても、往々にして、ジャーナリストとは思い込みの動物だし、取材を受ける側はリスクを承知で受けるべきなのだろう。

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