22年目の夏
高校時代の夏休みだった。今日のように蝉が騒がしく鳴いていた。
1985年8月12日、オイラはおそらく予備校からの帰りだったと思う。少し早めの夕食が終わり、居間にあるテレビを観ると、臨時ニュースが流れていた。
第一報は、日航123便が行方不明、のようなものだった覚えがある。
その瞬間は、「墜落」という言葉は浮かばなかった。
その頃までオイラは、飛行機に乗ったことがなかった。初めて飛行機に乗ったのは、高校の修学旅行だった覚えがある。飛行機が墜落するというイメージ自体、あまり想像できなかったのだ。
しばらくして、「レーダーから消えた」が、「墜落」に変わる。夜9時頃を過ぎると、テレビはどこも事故の特別番組に変わってしまっていた。
翌朝、目を覚ますと、家がやけに静かだった。
階段を下りて、夕べの居間へと進むと、両親が黙ってテレビを眺めていた。
青い背景に、日本人の名前が延々と映し出され、名前を読み上げるアナウンサーの声が静かに繰り返されていた。
両親とも、茫然自失の状態だったと思う。
知り合いの名前がないのか、最後まで確認を続けたが、見つからなかった。
「日航には乗らんとこう(乗らないでおこう)」
・・・母のそんな言葉が記憶に残っている。
以来、日本航空の飛行機に乗ることはめったになく、主に日本エアシステムを愛用していたが、両社が経営統合してしまい、日航のジャンボ機に遭遇することもあった。
あれから22年間、オイラが生きてきたのは、偶然と必然の融合なのだと思う。
何年か前に初めて、事故機のボイスレコーダーが肉声で公開された。最後の最後までコックピットで戦っていたクルーたち。もっと早くあの声を聞いていたら、この事故に対するイメージはずいぶん変わっていたのかもしれない。それを匿名でしか公開できない日本という閉鎖された社会にも、問題があるのだろう。
オイラはたぶん、これからも飛行機に乗ると思う。
事故に出くわすこともあるのかもしれない。
その瞬間、オイラは何を残せるだろうか。
1985年、当時日本は一番幸せな時間にあったような気がする。あの瞬間、はり倒されたんだと思う。
22年目の夏。
今年も、何も変わらない暑い夏がやってきた。
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コメント
事故現場から私の住む街は50~60キロ位離れているにも関わらず墜落時の衝撃があり、商店街を歩いている人は一瞬パニックになったと、当時父が話していました。
そんな父は他界しているし、時間がたつのは恐ろしいことで
事故のことはすっかり忘れ去られています。
年に一度でいいから思い出し、手を合わせなければいけないと、
こちらの日記を読み胸に刻みました。
投稿: らん | 2007年8月14日 (火) 07時22分
墜落現場は、意外に首都圏に近いのですよね。横田基地が123便の受け入れ態勢を整えていたくらいですから。
人づてにしか記憶のない若い人が増えてきたのを実感します。22年も前のことですもんね。
投稿: mori-chi | 2007年8月14日 (火) 08時08分