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2007年8月22日 (水)

【秋庭系東京地下物語'07《隠蔽》】(最終話)隠された後藤新平「帝都復興」の秘密・その3

東京市の職員や市会議員などの汚職が相次ぎ、事件の責任を取って田尻稲次郎東京市長が1920年(大正9年)11月に辞任した。市長の後任に市会は、市政刷新のため大物政治家である後藤を全会一致で選出したが、後藤は大調査機関設立に奔走しているからと断った。

そこで市会の幹部は、市長就任運動を行い、実業界や当時の首相である原敬を動かした。

江戸東京博物館で開かれている「後藤新平展」では、後藤自筆の「市長就任の決意」が展示されている。

一度貧乏籤ヲ引イテ見タイモノ

そう書かれていた。

このとき市議会がなぜ、後藤を市長に選んだのかについて、東京の歴史書や後藤の伝記は謎としているか、または、不正がはびこる市政の刷新を望んでいたとしている。しかし、市議会に不正がはびこっているとき、「満票」で刷新を望んでいるというのは、どこかツジツマが合わなくはないだろうか。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P275)

「謎」としている歴史書や伝記は存在しない。

何がつじつまが合わないのか、そっちのほうが謎だが、行政当局も、それをチェックする市会も傷がついている状況で誰の名前を挙げても、断られるのがオチだろう。東京市長を選ぶ権利は、当時は市民ではなく、市会議員にある。腐敗した議員が選ぶ市長は、誰もが納得できるような人物でなければならない。そこで名前が挙がったのが、当時の総理大臣候補・後藤新平だった。

もちろん、それに反対する議員などほとんどいなかったはずだ。反対した途端、「腐敗」のレッテルをはられる。後藤新平が全会一致で選ばれたのは、ある意味必然だった。

地下の都市伝説の権威・秋庭俊先生は、人格のねつ造が得意だ。ていうか、秋庭本全体が人格をねつ造することで成り立っている。ル・コルビュジエ、中村順平、内田祥三、そして、後藤新平である。

後藤新平に至っては、「地下鉄をつくるために東京市長になった」という、とてつもなくちっぽけな創作をしてしまっている。市政刷新も8億円計画も、秋庭先生にはどうでもいいらしい。後藤を歴史的鉄道オタクに祭り上げ、挙げ句の果てには極秘地下鉄をつくらせてしまう。

最終回は、後藤新平、その人に迫る。

任期途中の辞職について、歴史書などでは謎としているものの、後藤の言葉には「二年間居眠りの記」などというものもあり、東京市長就任はやはり地下鉄のためだったのだと私は思う。(『同』、P283)

これもそうだが、辞職の理由について「謎」と書いている歴史書はない。

実は後藤は、1924年(大正13年)に再び東京市長に推薦されている。その際にそれを断った理由をこう述べている。

昨年予が市長の職を辞したるは、断じて一身一家の私情に基くものに非ざるなり。
当時予は、世界列強の形勢を案じて、帝国国連の推移を孤立の危機より救い、且つ年々増加しつつある人口問題の急迫を緩和し、進んで帝国外交の新畛域を打開すべく切念したるも、不幸にして時の政府当局、殊に内外両省と意見一致せず、随って予若し長く市長の地位に在らば、国家大局の問題の為に累を市民に及ぼすの慮なきを保し難きを惟い、専念市民の幸福を希う至情よりして其の職を去りたるものなり。
蓋し我国の自治制は、尚恰も未成年者の如き実情の下に在りて、未だ真の自治に到達せず、故に市政の運用に関しては、常に監督官庁との諒解を密にし、微々たる一属僚に対してすら、恭謙自卑の態度を要とするが如き関係に置かれつつあるを以て、予が政府当局と国政上の見解を異にする結果、如何なる障碍を帝国自治体に与うるやも測り難きを予見し、之を憂慮したるに由るものなり。

東京市長辞任の理由は、ソ連の革命家であり外交官であるヨッフェとの交渉に専念するためだった。日本のロシア出兵以来、日本とソ連はほとんど交戦状態に陥っていた。その打開のため長春で会議が開催されたが決裂した。会議のソ連代表だったヨッフェは駐華全権代表として中国にとどまり、1923年(大正12年)1月、孫文と共同宣言を発表した。これらの動きを見た後藤は、日ソの国交回復の必要性を感じ、私的交渉を行うためヨッフェを日本に招いた。

しかし、当然のことながら、時の政府からは後藤の行動は意にそぐわないものだった。

現代を例にあげれば、北朝鮮に石原慎太郎都知事が拉致問題の解決のために自ら乗り込んだらどうなるだろうか。仮に交渉がうまく行ったとしても、日本政府の面目は丸つぶれだ。

後藤の場合、このヨッフェとの私的交渉が、約2年後の日ソ国交回復の糸口を開くことになった。

当時、鳴り物入りで登場した後藤新平東京市長だったが、東京市政調査会を立ち上げるなどいくつかの成果をあげたものの、8億円の計画をはじめとして、後藤の政策は必ずしも円滑には進んでいなかった。それは、後藤の構想が「大風呂敷」だからではなく、後藤と当時の内閣との関係がギクシャクしていたからだ。後藤が一大国策として挑んだ8億円計画に、主務大臣の内相が賛成しない。さらにヨッフェとの私的会談により、内閣との関係はますます悪化していた。

自分が東京市長の椅子にとどまれば、東京市と、何より東京市民に迷惑がかかる。

おそらく後藤はそう憂慮したであろう。

今の時代でさえ、国と地方自治体との関係が悪化していれば、必要な補助金も下りてこないし、事業の認可も下りないことがある。大正時代は、大正デモクラシーの息吹があったとはいえ、地方分権という概念はないに等しい。国との関係がギクシャクしていては、やりたいことも何もできないということになる。

虎ノ門地下鉄を申請したから東京市長を辞職したなどという、後藤新平をタダの鉄道マニアに陥れるような秋庭本では、決して後藤の辞職の真相には迫れないだろう。

 

では、秋庭先生が妄想している「虎ノ門地下鉄」が極秘のうちに建設されたとする説について検証しておこう。

一九二四年(大正十三)、内閣総辞職の後に初めて開かれた東京市議会は騒然としている。後藤新平の「虎ノ門ー竹橋」の地下鉄計画が立ち消えていた。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P292)

 

しかし、巨額の予算を流用しないで使い果たしたとすれば、普通は、地下鉄が完成しているのではないだろうか。(『同』、P294)

これは1924年3月15日の東京市会での審議である。

議員は、大正13年度電気軌道事業費の予算の中に「虎ノ門ー竹橋」の地下鉄建設費がなかったために、「地下鉄の趣旨は交通の緩和が急務だと言っていたの に、今年になって打ち切ってしまったのは何故か」と質問した。すると、長尾電気局長が、「震災がなかったら建設できていたが、復興事業で新たに街路計画を 立案していて、それに伴って地下鉄計画も見直さないとならないため、今年は打ち切った」と説明している。

さらに別の議員が、「あのとき地下鉄建設費はすでに電気局の予算の中に用意してあると聞いたが、今年の予算にないということは流用したということか?」と質問。長尾局長が、「復興事業に有り金をすべて投資してしまい、もうない」と答えた。

ところが秋庭先生は、予算を復興事業に投入したという内容をバッサリと切ってしまい、「流用」という言葉だけを一人歩きさせた。つまり予算の使い道を隠蔽したのである。

長尾局長の答弁は、以下の通り。実物は旧漢字・旧字体だが、秋庭先生の真似をして現代語に訳してみる。

お答えを申し上げます。これは減債基金の余剰をもちましてこれに充当するということを当時明らかに議案の中 に書いてございます。その通りなのでございますが、今回の大震災のために局といたしまして復旧に費やすのをこのたび3年間の継続費として提出してあります 通りに、4000万円の復旧に要する必要を余儀なくされているのでございます。それは13年度以降でございますが、すでに12年度におきましても応急施設 といたしまして、あるいは応急復旧といたしまして、電気局のもてるすべての経済の中の有り金をもって、これを一時支払いしていかなければならない必要に迫 りまして、自分のもてるものは全部その資源に当てまして、そうして先般来数回にわたってご協賛を得ましたあの応急設備費並びに復旧費にこれを充当してある のでございます。

電気局長の答弁は極めて明快だと思うが、いかがだろうか。

しかし、この議員、アホなのである。

地下鉄の予算を別の目的に使うとは何事かと局長を詰めたおすのである。日本語の通じない議員というか、考える能力のない議員というか、まあ、アホなのである。

秋庭先生は、長尾局長の答弁を隠蔽し、アホ議員の「流用」という言葉だけを一人歩きさせて、妄想地下鉄を勝手にでっち上げたのである。

めんどくさいので「地下鉄」と書いたが、正確には「東京市地下電気軌道」である。地下鉄というより、地下を走る路面電車と言った方が近い。全区間を地下にするわけではなく、地上を走り、地下に潜り、再び地上に上がるというルートになっている。

申請の内容は、こうである。

赤坂區葵町二番地地先ニ起リ虎ノ門公園ニ至ル道路
前項終點ヨリ同公園東角ニ至ル新設軌道敷
前項終點ヨリ地下ニ入リ道路下ヲ櫻田門外ニ於テ右折シ日比谷公園有楽門前ヲ左折シ濠端ニ沿ヒ東京驛前ヲ右折シ同驛前廣場ヲ經て驛前道路下竝濠下ヲ過キ麹町區大手町一丁目三番地地先ニ於テ道路上ニ出ツル隧道
前項終點ヨリ同區元衛町外國語學校正門前ニ至ル新設軌道敷
前項終點ヨリ一ツ橋新架橋ヲ渡リ神田區錦町三丁目十四番地地先ニ至ル道路(道路長二哩五六九)

極秘に建設するなど無理だ。地上部分が存在するのだから地下部分だけ極秘にしても意味がない。

実はこの議案と同時に、後藤は電気事業減債基金の規程を改正する議案も提案している。減債基金というのは毎年度の公債費負担を軽くするための基金。この基金に当該 年度の所定の支出を控除してもなお余りが出た場合、それを電気事業建設資金に充てることができるという条文を追加したのだ。東京市はこの余剰金を使って、 地下電気軌道を建設する予定だったのだ。ところが、後藤新平が市長辞任後、関東大震災で復旧経費がかかり過ぎて、この余剰金も復旧に当てられてしまったわけだ。

つまり、極秘地下鉄に流用したくても、その金はすでにないのである。

 

関東大震災後、山本内閣のもとで内務大臣であり復興院総裁を務めた後藤新平。しかし、帝都復興は、地主を中心として「区画整理は土地のタダ取り」という誤解を招き、どんどん縮小されていく。最後、帝国議会での予算審議では、復興院の事務費までも削除されてしまい、つまり復興院そのものの廃止にまで追い込まれる。

後藤の周囲では、解散総選挙を主張する声が出始めた。後藤自身の考えというより、周りが盛り上げていた面が強い。ビーアド博士は、帝都復興の難産を耳にして、後藤に手紙を書く。

ポリティシャンの如きは数うるには足りない。政治的名誉のごときも無価値である。普通選挙は時の経過と共に不可抗的に到来するであろう。

ビーアドもやはり、ここで妥協するなと後藤に訴えたのだ。

ところが、後藤はビーアドの手紙を読んでも、「それは腐儒(用をなさぬ学者の意)の意見だ」と吐き捨てたという。

後藤はすでに腹が固まっていたのだ。

ここでもしも政治に空白をつくり後藤が内閣から去ってしまったら、復興事業はそれこそ後退してしまう。ここは、一切を忍んで、妥協しよう。

こうして帝都復興の予算は、帝国議会臨時会で可決され、成立した。

が、後藤はすでに次の手を考えていた。

臨時議会では妥協し、屈服したが、通常議会では議会を解散する覚悟をしていたのだ。

以下は後藤の議会解散案である。

このようなことは著しく災害の後の民生の生活の安固を脅かし、帝国の復興の前途に非常な障害を与え、民心の動揺惑乱を招くものであり、真の国家の大計を誤まり時局を紛糾させる恐れがある。これを国運の前途に顧み、刻下の必要に照らしてみれば誠に寒心に堪えないものがある。政府は誠意を披瀝し、あらかじめ諒解を求めるところがあったが、いささかも容れるところとならなかった。事ここにいたっては衆議院の解散を奏請し、広く民意に問うほかはない。

ところが。

1923年(大正12年)12月27日午前10時42分

通常議会開院式の当日だった。

議会開院式に向かおうとする皇太子(後の昭和天皇)の乗る車を25歳の青年が襲った。

虎ノ門事件である。

12月29日午後4時、事件の責任をとるかたちで、山本内閣は総辞職した。

もしも、虎ノ門事件が起こらなければ、帝都復興事業は少し違っていただろうか?

後藤は、山本内閣総辞職後に復興事業を振り返っている。

「失敗の原因」について、こんな風に語っている。

この社会的聡明さと不純多数党の横暴への制裁が、果たして次の選挙に明断されるだろうか。次の選挙後にその過ちを悔い改めさせることができるかは一大疑問である。

議会解散を行うべきところに躊躇逡巡して勇断を欠き、大削減を被り、議会に服従し、不名誉なる因循微力の内閣であるという謗りを免れないうちに引責辞職するにいたったこと。

後藤新平は、近代政治史上有数の政治家だが、有能であるが故に多くの政敵を抱えていた。そのため、先行きを見通す優れた判断能力を持っているにもかかわらず、自らの構想が実現できなかったことが多い。政党の代表ではなかったことも、後藤のしがらみのなさを表している一方で、後藤を後押ししてくれる「数」が存在しなかった。でも、だからこそ、後藤新平は、今でも多くの人々に愛され、崇拝され続けているのだろう。

 

さて、以上でオイラの話は終わりである。

ル・コルビュジエ、中村順平、内田祥三、後藤新平と、秋庭本で取り上げられた人物の足跡をたどりながら、秋庭本の矛盾を指摘してきた。秋庭先生の最大の犯罪は、著作権どうこうより、こうした人格のねつ造である。自分の妄想に都合の良いところだけ、著作から切り刻んで抜き出し、妄想のストーリーに合うように縫い合わせる。その妄想が説得力を持っていればまだしも、荒唐無稽で、死人に口なしとばかりに故人の人格をぶちこわして、それを称してジャーナリズムを気取る。

そういう意味で、秋庭本というのは、犯罪的なのである。

ここまでお読みになればもうお分かりだろう。

地下の真相を隠蔽しているのは、政府ではなく、秋庭先生なのである。

(おわり)

【秋庭系東京地下物語'07《隠蔽》】

(第1話)隠されたル・コルビュジエ「輝く都市」の秘密・前編

(第2話)隠されたル・コルビュジエ「輝く都市」の秘密・後編

(第3話)隠された中村順平「東京近郊」の秘密・前編

(第4話)隠された中村順平「東京近郊」の秘密・後編

(第5話)隠された内田祥三「大同の都市計画」の秘密

(第6話)隠された後藤新平「帝都復興」の秘密・その1

(第7話)隠された後藤新平「帝都復興」の秘密・その2

                   ・・・(補足

(最終話)隠された後藤新平「帝都復興」の秘密・その3

(関連図書)

(執筆にあたり参考にした展覧会)

森美術館「ル・コルビュジエ展 建築とアートその創造の軌跡」

江戸東京博物館「生誕150周年記念後藤新平展 近代日本をデザインした先駆者」

(参考文献)

『輝く都市』(ル・コルビュジエ著、坂倉準三訳、鹿島研究所出版)

『The radiant city; elements of a doctrine of urbanism to be used as the basis of our machine-age civilization』(Le Corbusier Orion Press)

『荷風とル・コルビュジエのパリ』(東秀紀著、新潮社)

『ル・コルビュジエと日本』(高階秀爾他編、鹿島出版会)

『ル・コルビュジエの構想 都市デザインと機械の表徴』(ノーマ・エヴァンソン著、酒井孝博訳、井上書院)

『巨匠への憧憬 ル・コルビュジエに魅せられた日本の建築家たち』(佐々木宏著、相模書房)

『ル・コルビュジエ全作品集 第2巻』(ウイリー・ボジガー編、吉阪隆正訳、A.D.A.EDITA Tokyo)

『ル・コルビュジエ全作品集 第3巻』(ウイリー・ボジガー編、吉阪隆正訳、A.D.A.EDITA Tokyo)

『ル・コルビュジエ ユリイカ臨時増刊号vol.20-15』(青土社、1988年12月)

『東京の都市計画を如何にすべき乎』(中村順平著、洪泉社)

「仏蘭西現代都市研究に就て」(中村順平著、『建築新潮』1924年9月〜10月号)

『情念の幾何学 形象の作家中村順平の生涯』(網戸武夫編、建築知識)

『内田祥三先生作品集』(鹿島研究所出版会)

「大同の都市計画に就て」(内田祥三著、『建築雑誌』1939年11月・12月号)

『メトロ誕生 地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防』(中村健治著、交通新聞社)

『帝都復興事業大観』(日本統計普及会)

『帝都復興史』(復興調査協会)

『正伝 後藤新平8「政治の倫理化」時代』(鶴見祐輔著、藤原書店)

『正伝 後藤新平7東京市長時代』(鶴見祐輔著、藤原書店)

『東京市会議事速記録』

・・・まだ失念している文献があるやもしれませんが思い出すたび加えます(笑)

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秋庭系東京地下物語2007」カテゴリの記事

コメント

Red Baron 後藤新平の行は、mori-chiさんならではの書きっぷりで面白かったです。
ボーイスカウトに片足を突っ込んでいた時期がありましたので、後藤新平には初代日連総長と言うイメージが強いんですね。
そして、行政官としては、典型的な漸進主義による秩序維持派の内務官僚と言うのが、私の中の後藤像。
大風呂敷急進的と見るより、台湾の防疫体制の構築などに見る現実的な手法などから漸進主義と見ています。
さて、「虎ノ門地下鉄」、千代田線建設史の虎ノ門-東京駅-新橋は、新橋じゃなくて竹橋だったんですね。4キロじゃあ勘定が合わないので、あそこ一寸暈し気味に書いてます。
やっぱり(後略)のところにはそれなりの隠蔽があったんだ。wikiに参照元として補足させていただきます。ご了解の程。

投稿: 陸壱玖 | 2007年8月22日 (水) 22時30分

読んでいただきありがとうございます。楽しんでいただけて幸いです。リンクはがしがしはっちゃってくださいまし。

秋庭さん、都立中央図書館所蔵の『東京市会議事速記録』をかなり読み込んで捏造しているなという感じを受けました。虎ノ門地下鉄の申請内容、6路線の地下鉄網、いずれも『速記録』で確認できます。公文書館に通っているふりして、やっぱり図書館に引き籠っていたんだなぁと。こいつを丹念に洗い出せば、まだ捏造の痕跡が出てきそうな予感がします(笑)

晩年の後藤のボーイスカウト制服姿、なかなかかっちょ良かったです(≧▽≦)/

投稿: mori-chi | 2007年8月22日 (水) 22時57分

土曜は都営地下鉄夏の企画切符(都営地下鉄乗り放題)500円也を握り締め両国。
後藤新平展! 買っちゃいましたよ図録。確かに可愛いスカウトの制服姿(笑
次に曙橋、新宿歴史博物館! 買っちゃいましたよ「新宿盛り場地図」旧新宿三丁目9は正確には「いさみ洋品店」と判明。現新宿三丁目9は当時新宿二丁目の遊郭街のど真ん中。「いかにも利光が敷設しそうな地下鉄である」(笑笑
この行脚の成果はこちらに。

http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/87.html

江戸東京博物館もそうですが、博物館。東京の歴史と言うものは、縄文から近世にいっきに飛ぶということがよく判る構成でした。
まぁ、考えてみれば、私の時も小学校での目黒区の歴史は「東山貝塚」からいっきに「五百羅漢」辺りに飛びましたな。

投稿: 陸壱玖 | 2007年8月26日 (日) 23時09分

きっと地下鉄新宿線の「本命」は、たくさんあるんでしょうね。丸ノ内線の「ヤードのカーブ」だと言ってみたり、玉川上水ルートがあると言ってみたり、宮城の中央を通ると言ってみたり、『地下網2』では「複数のルートがあった」なんて言ってましたっけ?

下手な鉄砲、数撃ちゃ当たるってわけですが、さっぱり当たらないのがせつないですなー。

利光さんは、自分が遊ぶために地下鉄掘ったんでしょうか(笑)掘り下げれば掘り下げるほど、秋庭ワールドは「荒唐無稽」です。本人、自覚しているみたいなんでいいんですけど、だまされている方はぜひ、公文書館なんて行かなくても、巷の博物館程度で論破可能なんで、プチ検証されることをオススメしたいものです。

投稿: mori-chi | 2007年8月26日 (日) 23時58分

また、我々のフィールドに、新しい肉塊、と言っても、返品された賞味期限切れの謎の生物の脂とか筋とかを、糊付けした合成肉、が撒かれたようです。
冒頭数項を見ただけで人々はぼう然とし、やがてそれは怒りに変わる類の便所の落書きと言ったら落書きが怒ってきそうな新著(中味は前述)
「大東京の地下鉄道99の謎」秋庭俊著二見書房刊
突っ込み所どころか、オール嘘と捏造本が出ましたな。
腹の皮まだ、哄笑の余震が(ゲラ

投稿: 陸壱玖 | 2007年9月28日 (金) 21時08分

・・・くくく・・・

  かかかかかかっ

ふぉっふぉおふぉ・・・

腹が・・・腹が痛い・・・・

地下鉄道?

は・・・腹が・・・・

はっはははは・・・・・・・

投稿: mori-chi | 2007年9月28日 (金) 21時22分

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9月最初の日、両国へ行ってきました。 近頃注目を集めている相撲…ではなく、(9月場所は9日からです) 筋鉄さんが入ったのは江戸東京博物館 [続きを読む]

受信: 2007年9月 3日 (月) 18時11分

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