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2007年5月27日 (日)

【秋庭系東京地下物語'07《秘密》】(第9回)国会議事堂の「隠された地下」の謎・その3

P1020691 国会議事堂と言えば、この中央塔の三角屋根が特徴だろう。ピラミッドというのか、何というのか。前回紹介したデザイン設計の懸賞で一等に選ばれた作品では、こんな屋根はついていない。もっと西洋風でルネッサンス洋式のドーム屋根だった。

なぜ吉武が国会議事堂に「墓」のデザインを使用したのか。国会議事堂の謎はここから解けると私は確信していた。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P87)

まあ、つっこんでおけば、ピラミッドは最近の研究では「墓」ではないらしいことが分かってきた。それは置いておいても、地下の都市伝説の権威・秋庭俊先生は、自著でこう書きながら、この疑問には答えていない。「ここから解ける」と確信して、最後まで分からなかったのだから、結局、謎は解けなかったのだろう。

何故、国会議事堂の屋根は、一等作品のルネッサンス様式ではなく、ピラミッド型になったのか。その謎を追うと、結局のところ、ピラミッド型は誰のアイデアなのかという疑問にぶつかる。

今回は、議事堂のデザインは、誰が設計したのか、に迫る。

この謎を探るにはまず、秋庭先生が掲げている大前提から否定せねばならない。

議院建築局は一等を発表すると同時にこの作品の不採用を発表している。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P82)

「一等不採用」という発表をした事実は存在しない。

前回紹介した議院建築調査会は、懸賞募集について、応募者と審査員を「帝国人民」に限ること、「議院として相当の威容を保たしむること」などに加え、「当選者の意匠設計といえども、之を取捨することあるべきこと」としている。これを受け、臨時議院建築局がまとめた「議院建築意匠設計懸賞募集規定」では、次のように定められている。

第十九条 当選設計の図書及其の意匠は臨時建築局の所有に帰するものとす

第二十条 当選者の意匠設計といえども実行の場合に於ては之を取捨変更することあるべし

国立国会図書館の設計競技を覚えていらっしゃるだろうか。あのときと同じなのである。

一等は、宮内省技手の渡辺福三だった。

審査員だった矢橋賢吉工営部長は、「ギリシャ様式を取り入れたルネッサンスの風趣は荘重にして穏健であり、見飽きしない。こうした外観上の要素は、議院建築のような建物には最も必要なもので、この点、渡辺案は一番優れていた」と評した。

当時の新聞には、渡辺が宮内省匠寮の同僚7人と、ほぼ1年がかりで設計したとあるが、本人の談話が出ていない。

で、その渡辺なんだけど、国会議事堂の公募で一等をとっただけで、ほかに何一つ設計していない。人名辞典にもない。矢橋のチームにも呼ばれていない。呼ばれたのは、渡辺の作品をサポートした吉武になる。

渡辺は新聞にも出てこない。結果発表はあっても、本人の声はない。誰もインタビューしてない。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P85-86)

秋庭先生の盟友・中川さんが、上記のように秋庭先生に語っている。

秋庭さん曰く「初めて国会議事堂の地下を公にした」という読売新聞の『国会おもて裏』が、渡辺のことを紹介している。

渡辺は、横浜・野毛の出身で、青年時代は北海道に渡り、屯田兵も体験した。建築は宮内省に入ってからの20年間で勉強したものだった。当選当時50歳である。

だが、一等に当選して、わずか5ヶ月後の大正9年3月、スペイン風邪で急死した。当時、この風邪が、東京を中心に大流行していて、内務省衛生局の調べによると、大正8年9月から5ヶ月間に全国で6万5800人の命を奪ったという。

だから、議事堂の設計には参加したくても参加しようがない。だからこそ、同僚の吉武が参加したのだ。

『国会おもて裏』が、連載当時に健在だった渡辺の二女の談話を載せている。

「私は当時小学生でした。英国大使館の近くにあった自宅二階の部屋に、役所の方々が集まり、夜遅くまで仕事をしていたこと、当選したとき新聞記者が大勢取材にみえたのを子ども心に覚えています」

「実は、その時、父は家にいたのですが、はれがましいのがきらいな性分でしたから、居留守を使ったのです」

「賞金は七人で分け合ったので、それほど残らなかったと、のちに母から聞きました。父は当選後、役所をやめて建築設計事務所をかまえる考えがあったようです。でも、スペイン風邪が、その夢を奪ってしまいました」

では、一等の渡辺の作品は、現在の議事堂にどう生かされたのか。

矢橋工営部長は、一等案について、こんな批評をしている。

応募図案全体を通じて見ると、エレベーションのやや優ったものは配置が甚だ拙であり、配置がかなり出来ていると思へば間取が非常に面白くないと云ったやうな次第で、中にもエレベーションの為に間取を左右して、参考図の間取に対し却て所謂改悪を試みたものが幾つかあった。(略)第一等案は間取に就いては、当局からの要求に対し、部室控室委員室等の重要室に於て、五分以上減坪になっているものが総計で二十室もあり、一見してエレベーションに支配されつつプランを拵へたという嫌ひがある。

つまり、外見はいいけど、中身が小さすぎて使えないってことだろう。

しかし、二次競技の際の注意事項で、デカすぎると文句を言っていたのに、今度は小さすぎるというのは、ほとんどいちゃもんに近いような気もする。しかも、募集規定には、事細かな間取や配置が指定されていたのだから、「外見はいいが、中身がダメ」という批評は、ちょっと待てよって文句を言いたくもなる。

『国会議事堂』(朝日新聞社)で、松山巖氏は、「当選案を採用しなかったのは、配置が理由ではなく、別の力が一方で働いていたのではないか」と指摘する。

平面計画では、当選案と実施案とでは、さほどの違いはない。これは、秋庭先生の盟友・中川さんの指南通りである。設計競技の翌年、第一次世界大戦後の大不況が日本を襲う。ちょうど、シベリア出兵のツケがまわってきた時期でもあった。かつての議事堂建設は、戦争のたび財政難で挫折してきた。松山氏は、大蔵省臨時議院建築局は、できるだけ予算を抑えようとしたのではないかと推測する。

最も変わったのは、塔屋の形である。

実は、実施設計当初、中央の高塔は、ルネサンス風のドームだったのだ。ところが、関東大震災で、作成した図面が焼失。それを再現する過程で、塔の先頭が、ルネッサンス風のドームから、ピラミッド型へと変更されたのだ。

何があったのだろうか?

当時の当選案は、一様に専門家たちには不評だったようだ。それは、矢橋のように、議事堂の中身のことではなくて、外側のデザインだった。

特に、建築家の下田菊太郎は、帝国議会まで巻き込んで、「帝冠併合式」の様式による議院建築の設計を提案し、その後の矢橋らの実施設計に影響を与えたものと思われる。

『日本の建築「明治大正昭和」4議事堂への系譜』(長谷川堯、三省堂)が詳しい。

下田は、設計競技が行われたあと、大正9年になって、個人の建築家の立場から、議事堂のデザインについて自分の案を公表し、自分のデザインを採用すべきと、議会に2度にわたり、「請願」した。振り返れば、議事堂の懸賞で当選した案は、ほとんどがルネッサンス様式のような外国の様式を似せたものばかり。下田は、「日本にも美しい建築があるのに、どうしてそれを採用せず、外国かぶれの議事堂にしてしまうのか」と、まあ、ざくっと言えばそういう主張をしていたのである。

「帝冠併合式」とは、「世界最善のローマ式の上に、万邦最美の日本型屋根を置く」ということで、要は、和風と洋風の融合ってわけだ。

下田は、議会への「請願」の働きかけに加え、矢橋工営部長などと雑誌上で議論したりと、ねちっこく自分に議事堂の設計をまかせろと議院建築局に迫った。その働きかけは、大正12年頃まで続いたらしい。

そして、関東大震災である。

図面は焼失した。

この少し前、大正10年9月に、現在も皇居内にある枢密院庁舎が完成している。この建物は、いわば国会議事堂のミニチュアである。現在の議事堂の外部のデザインは、この枢密院庁舎の「実験」の結果、決定された。その枢密院の設計を担当したのは、嘱託小林政一、技手小林正昭。このうち小林正昭は、大正7年に行われた明治神宮外苑の聖徳記念館の設計競技で一等当選した建築家。彼は、枢密院の設計のあと、議事堂の実施設計のチームの一員として働いていた。

あのピラミッド型の屋根は、小林正昭のアイデアなのか?

そこは、よく分かっていないようだ。

ただ、当時の渡辺案のルネッサンス式の屋根は、矢橋工営部長が評価していたようには、多くの建築家からは評価されていなかったようだ。だから、「実験」の枢密院も、ドーム型の屋根を設けておらず、現在の議事堂に近い。ピラミッド型が日本風かどうかは少々疑問が残るところだが、震災で図面が焼失して以降、議事堂のデザインは、いろんな意味で、日本らしさを求めたのだと思う。

いま、国会議事堂の中央塔にはピラミッドが載っている。渡辺の作品では、ここは半球のドームだった。この変更については、吉武が悩み抜いたと言われていて、完成時、専門家の間でもここが話題の中心になっていた。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P87)

悩んだのは、吉武だけではなかったようだ。物事はそんなに簡単ではなかったということが、お分かりいただけただろうか。

最後に、参議院法制局のサイトにあるコラム「著作権の対象・国会議事堂は著作物か」を紹介しておこう。

国会議事堂が著作物だとすると、その著作権は誰にあるのでしょうか。著作権は原則として著作者にあります。国会議事堂を建設するにあたっては、意匠設計の懸賞募集が行われ、宮内省技手のある人が1等となったようですが、これは参考にするにとどめられ、結局は大蔵省に設けられた臨時議院建設局の担当職員が基本設計を決定したようです。著作権法では、法人においてその事務に従事する者が職務上作成した場合には、通常、その法人が著作者であると定められています。したがって、国会議事堂の著作権は、国にあるということになりそうです。

著作権という点に着目すれば、国会議事堂を設計したのは、国ってことになるのかな。

陸軍が介入してるってことだと思う。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P86)

で、陸軍はどうしたんだっけ?洋風の屋根を和風にしたの?

…国会議事堂は、防空的でも何でもない。太平洋戦争で議事堂がほとんど無傷だったのは、米軍が爆撃を避けたからだ。米軍は、非武装の住民が住んでいる下町地域を完全に焼き払ったくせに、接収後に利用したい建物は無傷で残した。もしも、議事堂にミサイル発射台とか埋め込まれていたら、たぶん、容赦なく爆撃しただろう。結局のところ、秋庭先生は、議事堂の何が防空的なのか、まったく語らないまま、次の仮説へと進んでしまう。

議事堂の屋根の件も同じ。

秋庭先生は、あらゆる仮説が、投げっぱなしなのである。

次回は、いよいよ最終回。

国会議事堂の地下には、何があるのか、に迫る。

(つづく)

【秋庭系東京地下物語'07《秘密》】

(第1回)斜に構えたアイツの謎

(第2回)首相官邸のトンネルの謎・前編

(第3回)首相官邸のトンネルの謎・後編

(第4回)国立国会図書館の「複雑な機能」の謎・前編

(第5回)国立国会図書館の「複雑な機能」の謎・後編

(第6回)憲政記念館の「壁の中の階段」の謎

(第7回)国会議事堂の「隠された地下」の謎・その1

(第8回)国会議事堂の「隠された地下」の謎・その2

(第9回)国会議事堂の「隠された地下」の謎・その3

(最終回)国会議事堂の「隠された地下」の謎・その4

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