【秋庭系東京地下物語'07《秘密》】(第7回)国会議事堂の「隠された地下」の謎・その1
長い長い、永田町を巡る謎解きも、ついに最後となった。ここは、国会議事堂。秋庭ワールドのミステリーをすべて抱え込んだ都市伝説の館である。
地下の都市伝説の権威・秋庭俊先生は、国会議事堂の脇を通る地下鉄の路線図の謎から、隠された地下網の秘密の謎解きを始めた。
国会議事堂がこのような存在になった理由はおそらく地下に集約されている。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P366)
オイラは、今回、「このような存在」たる国会議事堂へと実際に潜入し、様々な資料を紐解きながら、国会議事堂の「隠された地下」の謎へと迫ろうと思う。
国会議事堂がたとえ、史上最高の名建築だとしても、そこまで国民にウソをつかないと運営できないのだとすれば、それはもう民主主義の敵なのだと思う。(『同』P366)
ウソつきは誰なのか。では、始めるとしよう。
まず、前提条件をハッキリさせておきたい。
読売新聞が地下道の存在に触れたのは、一九七八(昭和五十三)年だった。この年、国会図書館は『帝国議会議事堂建築報告書』を一般に公開している。(『帝都東京・地下の謎86』洋泉社、P142)
これがよく分からない。『帝国議会議事堂建築報告書』(大蔵省営繕管財局編)は、おそらく国会議事堂について現存している最古の資料だし、しかも市販されなかったために、大変貴重な本でもある。だが、これが極秘資料になっていたという事実はない。この『報告書』には、「帝国図書館蔵」の所蔵印があるのだ。所蔵印に記載された納本日は、「昭和十三年十二月二十七日」(実際には「二十」は旧漢字)とある。
この帝国図書館は、戦前の文部省の管轄で、普通に一般市民が本を閲覧できる図書館である。戦後も、国立国会図書館支部上野図書館として、帝国図書館の蔵書をそのまま受け継いで、閲覧に供している。その後、国立国会図書館本館のオープンにより、上野図書館の蔵書を、本館と統合させている。おそらく、『報告書』も、このとき本館の書庫へと移動したのではないだろうか。
そもそも、図書館というのは、公文書館ではない。図書館が公開したり、非公開にしたりする権限はない。公開していけないなら、図書館なんかに置かないで、政府の倉庫にしまっておくものである。
国会議事堂の地下の謎は、この『報告書』を読めば、すぐに読み解けてしまう。秋庭先生は、それでは謎が謎にならないので、当時の福田内閣が地下の方針を緩和したという作り話をここで書いたのだ。
ちなみに、『報告書』は貴重本だが、同時期に作られた『帝国議会議事堂建築の概要』という冊子があって、『報告書』の内容を要約した簡易版が存在して、これは都立中央図書館などでも閲覧できる。ここには、『報告書』とまったく同じ、3本の地下道が記された図が掲載されている。こっちは、果たしていつ「公開」されたというのだろうか。
隠しきれないものを「隠している」と強弁すると、どこかで矛盾が出る。
『報告書』は、本編と資料編に分かれていて、どちらも国立国会図書館で閲覧することができる。ただし、古い本なので、傷みが非常に激しくて、本編が複写禁止になっている。このブログを読んで、自分も読もうと思う方もいるかと思うが、くれぐれも丁重に扱ってあげてほしい。国会議事堂建設当時の息吹を知ることができる、たった1つの、しかも、たった1冊の本なのだと思う。
国会議事堂に地下道があることを公にしたのは、おそらく読売新聞が最初である。(『帝都東京・地下の謎86』洋泉社、P140)
これも、おそらく妄想である。っていうか、ねつ造なのである。
この一文のあと、秋庭先生は、その読売新聞の連載にある「くだり」を引用する。
議員数が倍近く、元気な人が多い衆院の方が、当然、(赤じゅうたんの)いたみが激しい。なかでも議員会館と本会議場を結び、各党控室、大臣室などの沿道にあたる、いわゆる「国会銀座」の廊下と階段が、統計上、一番いたむ。
この引用を受けて、秋庭先生は、
カンのいい読者なら、ここに地下道があると気づかれたと思う。(『同』同)
と、さりげなく読売新聞が地下道の存在に触れた、と書いているのだ。
では、読売新聞の『国会おもて裏』の該当箇所を、実際に引用してみよう。この章のサブタイトルは、「昔赤じゅうたん、今バッジ」である。
このじゅうたん、幅一・八メートルで、一階から三階まで廊下と階段分をあわせ、総延長約四・六キロ。寿命はざっと五、六年、階段はその半分ぐらいという。議員数が倍近く、“元気な人”が多い衆院の方が、当然、いたみが激しい。なかでも議員会館と本会議場を結び、自社民の各党控室、大臣室などの“沿道”に当たる、いわゆる“国会銀座”の衆院二階西側の廊下と同西南角の階段が、統計上、一番いたむ。
どうだろうか?オイラは、カンが悪いらしい。これを何度読んでも、国会銀座は、衆院の2階にあるように読める。
衆議院第一議員会館から地下道を通り、議事堂へと入ると、そこはちょうど議事堂の西南角の1階に出る。えっ、地下道から来たんだから地下じゃないのって思うだろうが、まあ、ここは読み流してもらいたい。まず「西南角の階段」で、2階に上がる。そこから、議事堂西側の廊下を本会議場に向かって進むと、左側に各党の控室があり、右側に本会議場がある。「自社民」は、自由民主党、日本社会党、民主社会党のこと。時代が分かるね(笑)この廊下を一番奥まで行くと、大臣室がある。
これが、“国会銀座”である。
地下道の話は出てこない。
では、『国会おもて裏』は、国会議事堂の地下道のことに、まったく触れていないのだろうか。
実は、触れている。
しかも、カンが悪くても気づくように、「地下道」とハッキリ書いているのだ。
秋庭先生、かなり惜しかったのである。
秋庭先生が引用した文章と同じ章、本で言えば次のページに、こんな記述があるのだ。
乱闘国会たけなわの昭和三十年代、赤は“興奮色”だから別の色にした方が国会が正常化するのでは、などという議論もあった。(略)…高度成長の四十年代には議員会館の連絡地下道にも敷きつめろ、などという議員もいた。
秋庭先生は、何故こっちを引用せずに、カンが悪いと分からない箇所を引用してしまったのだろうか。
国会議事堂の地下道が、いつ公になったかはとりあえず置いておいて、いったいいつ頃から使われているのかを調べてみた。実は、この企画の第2回目で、「現在の地下道は、昭和38年に第一議員会館との間が完成し、その後順次結ばれた」と冒頭に書いた。ある本にこう書いてあるのだが、この記述は、書いた自分が言うのも何だが、間違っている。確かに議員会館と議員会館を結ぶ地下道は当時できたのだが、秋庭先生が言うように、西側道路を渡る3本の地下道は、議事堂が出来た当時から存在しているのだ。
では、いつから使っているかというと、完成した初日から使っていた。
『報告書』に、昭和11年11月7日の竣工式後に行われた祝賀会の様子が書かれている。
竣工式終る頃より秋雨満庭を潤し、参列員三千余名は地下道を経て、新議事堂裏側広場に設けたる天幕張の祝賀会場に臨めり。
この地下道は、現在参議院から参議院議員会館へと通じる地下道のこと。議事堂の前で竣工式に参加した人たち、およそ3000人は、この地下道を通り、西側道路の向かい側へと渡ったのだ。
『帝国議会議事堂建築報告書』は、戦前戦後一貫して、公表されているものである。なので、読売新聞が公にしたという事実はない。秋庭先生は何故か、とんちんかんな箇所を引用して、2階を地下だと強弁している。最初に地下道が使われたのは、議事堂完成初日で、竣工式と祝賀会の参加者3000人がそろって、地下道を歩いている。
国会議事堂の地下を「隠した」のは、政府ではなく、秋庭先生だったのである。
次回は、国会議事堂の地下が設計されたのはいつなのか?という謎に迫る。
(つづく)
【秋庭系東京地下物語'07《秘密》】
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