【秋庭系東京地下物語'07《秘密》】(第2回)首相官邸のトンネルの謎・前編
あの古びた建物は、この画像の少し左のほうに丸ごと移動してしまった。なので、これから書く話は、すべて旧官邸で起きたこととして読んでいただきたい。残念ながら、今の官邸について書いた本はまだ存在しておらず、これから書くトンネルも、あくまで旧官邸のことである。新しい官邸にある秘密のトンネルについては、安倍総理に聞いていただきたい。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。
首相官邸と国会議事堂をつなぐトンネルがあるという噂がある。60年安保の時代、毎日新安保条約に反対する人たちが国会議事堂の周りをデモ行進して、騒然とした中で国会審議が行われた。当時の岸信介首相は、官邸から群衆を避けて地下を通って議事堂に入ったと言われた。でも、現在の地下道は、昭和38年に第一議員会館との間が完成し、その後順次結ばれたので、どうも地下を通って議事堂に入ったという話は、噂に過ぎないようだが…。
今回は、首相官邸にある秘密トンネルの謎を検証する。
この話の不思議なのは、首相が国会の議場に存在しなくても、新安保条約は採決できる、ということである。デモ隊が、岸首相が国会に行けなくなるよう、首相官邸を包囲したとしても、衆議院は議長が開会を宣言すれば、開会する。採決は、多数決だから、岸首相がそこにいなくても、単独で過半数の議席を持つ自民党の議員が立てば、新安保条約は批准される。そもそも、総理大臣は、国会開会中は議事堂内の大臣室にいて、閣議も議事堂内で行われるから、デモ隊に囲まれた首相官邸に戻らなくても、最初から国会にいれば良いわけである。
この噂は、地下の都市伝説の権威・秋庭俊先生も、『大東京の地下99の謎』(二見文庫)でも披露しているが、いつものような秋庭先生のデマではなく、実際にそう書いている本もある。でも、どうやら、事実ではないような気がする。
当時を振り返ってみよう。
1960年の前半、国会や官邸の周辺はデモ隊の波で埋まり、渋谷区南平にある岸首相の私邸にまでデモ隊が押しかけてきた。特に、5月19日から20日未明にかけて、日米安保条約改正案の批准が、自民党の単独採決で強行されると、岸首相は行き場がなくなり、官邸、国会内大臣室、私邸の3カ所を逃げ回るような毎日だった。
官邸の留守番役だった主席参事官は、「総理や椎名(悦三郎)官房長官にはできるだけ官邸には近づかないようにしてもらった。というのは、野党の代表や学者などが面会を求めて毎日のようにやって来たからです。一つ例外を認めると、他も断り切れなくなるし、いったん正門を開けるとなだれ込まれる恐れもあった」と語っている。
普通の法律なら、この後、参議院に送付されて、採決されて初めて成立するのだが、条約というのは、衆議院が採決すれば、参議院の採決を経なくても、1か月後に自然成立する。
(日本国憲法)
第六十条【衆議院の予算先議と優越】
1 (略)
2 予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が衆議院の可決した予算を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
第六十一条【条約の国会承認と衆議院の優越】
条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。
自然成立を4日後に控えた6月15日夜、国会南通通用門付近でデモ隊と警官隊が激突し、東大生・樺美智子さんが死亡する。この事件は、岸内閣の退陣を決定づけた。
新安保条約が成立となる1960年6月18日から19日未明にかけてのデモは、33万人を集めたと言われている。総理官邸の周りも、3万とも4万とも言われる学生や労働組合員に取り囲まれ、赤旗とプラカードの波に埋め尽くされていた。
彼らがやろうとしていたのは、岸首相を国会に行かせないことではない。放っておけば自然成立するのだから。彼らの要求は、岸総理の退陣である。
四面楚歌の岸首相。閣僚の多くは、岸退陣の動きの中で官邸には寄りつかず、実弟の佐藤栄作蔵相や、ごく少数の岸派の議員が付きそうだけだった。新安保条約が自然成立した午前零時ちょうど、官邸では、岸と側近の国会議員らがシャンパンで乾杯した。
さて、こんな風に振り返ってみると、岸首相がデモ隊を避けて、国会の議場に姿を現した、という話は、何だか怪しくなる。岸首相は、衆議院で条約を自民単独で採決したあとは、ただただ逃げ回るのみ。自然成立となる夜は、官邸に、ごくわずかの側近とともに缶詰めにされ、自然成立と同時にシャンパンで乾杯していたのである。
どうやら、首相官邸と国会議事堂を結ぶ地下道など、必要なかったようだ。
では、首相は、官邸から国会議事堂まで、どうやって移動しているのか?
官邸前の交差点には、横断歩道があるが、そこを横断する歴代総理など、見たことがない。てか、そんな恐ろしい光景は、危機管理上見たくない。
『検証 首相官邸』(毎日新聞政治部編、朝日ソノラマ)に、こんな一節があった。
六十二年十一月六日午後四時二十四分。国会の衆・参両院本会議で首班指名を受けたばかりの竹下首相が、緊張に身を強ばらせながら、参議院正面玄関に待ち構えていた黒塗りの大型乗用車に乗り込んだ。
竹下に付き添っていた梶山静六副幹事長が、誰に向かって言うともなく、「これから官邸だ」と大声で行き先を告げた。ついに最高権力者の館へ首相として乗り込むんだという竹下の気負いが乗り移ったかのようなひと声だった。
竹下を乗せた車は、官邸前の交差点や、普通入ろうとする人は必ず一度止められる官邸の正門さえも一切ノンストップで疾走し、わずか一分で官邸玄関にタイヤの音をきしませながら滑り込んだ。
竹下首相をこのとき運んだ首相専用車は、厚い鋼板と防弾ガラスで覆われていた。
うーん、トンネルがないんじゃ、何だかつまんないね(笑)
ご心配なく。これで終わらないから。
岸首相は、1960年6月18日に官邸に缶詰めにされていたとき、ただ手をこまねいていたわけではない。デモ隊が官邸を取り囲む中、脱出しようと試みていたのだ。
当時の首相秘書官の証言がある。
「いよいよ危ないと思い、まず一人で懐中電灯を持ち、食堂近くからトンネルに入った。トンネル出口の鉄の扉のカンヌキをはずして表に出てみたが、あたりはデモ隊であふれていた。これではとても脱出できないと思い、結局引き返してきたんだ」
懐中電灯片手の首相秘書官がカンヌキをはずして出たところは、総理府職員用の住宅、永田荘の庭先である。このトンネルは、官邸に2つあるトンネルのうちの1つだった。
この証言、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)でも、「これ以降は記者団との談話が活字になっている」(P77)という意味不明の前置きをして、このトンネルのことが書いてある。ちなみに、『帝都東京地下の謎86』でも、「戦後、岸信介もトンネルについて語っている」(P146)という、これもまた意味不明の前置きをして同じネタを披露している。
実は、この話は、『首相官邸・今昔物語』(大須賀瑞夫著、朝日ソノラマ)に登場する。秋庭先生はまるで岸首相が語っているかのように書いているが、上にあるように、当時の首相秘書官が証言していて、岸首相本人の証言ではない。トンネルを通ったのも、岸首相ではなく、この秘書官である。その話は、誰かが「記者団」に語ったのではなく、本を書いた本人が秘書官に取材したのである。誰かさんのように、他人の本を丸写しして、自分が取材したかのような顔をしてはいない。
次回は、いよいよ実在した首相官邸のトンネルの話である。
(つづく)
【秋庭系東京地下物語'07《秘密》】
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コメント
本払暁wiki更新しようと管理者で入って書き終わったところで、非管理者扱いで書いた記事がアボーン!やり直しだぁい!
些細なことですが、岸さんの私邸は「南平」ではなくて、「南平台」岸さんが御殿場に移られた後、「国際商況連合」(T一教会)さんの手に渡ったと記憶しています。
「商況」さんその後旧山手通りの目黒側に移られたのかな?跡地は今はマンションですね。
当時私邸のご近所に、と言っても200メートルは離れていたでしょうが、桜ヶ丘の方だったと思いますが、「岸」さんと言うお宅があって、門柱だかに「うちは岸ではありません」(笑)と書いておられたのを薄っすらと覚えております。
投稿: 陸壱玖 | 2007年5月19日 (土) 11時27分
ほんとですね。「台」が抜けています。ご指摘ありがとうですm(__)m
オイラもよくブログで苦労して書いた記事を消してしまいます。キャッシュすら残っておらず、むせび泣く夜もあります(笑)
投稿: mori-chi | 2007年5月19日 (土) 12時05分