【秋庭系東京地下物語'07《秘密》】(第6回)憲政記念館の「壁の中の階段」の謎
左の銅像は、尾崎行雄である。憲政記念館を訪問する人たちを玄関前で出迎えている。
尾崎行雄は、明治23年の第1回総選挙以来、衆議院議員に連続25回当選し、在職期間が60年7ヶ月に及ぶ政治家。戦時中、すべての政党が大政翼賛会に合流し、ほとんどの候補者が大政翼賛会の推薦で選挙に立候補していた時代にも、尾崎は、推薦なしで立候補して、当選を果たした数少ない1人である。終生、憲政擁護の旗印を掲げて藩閥・軍閥の権勢に言論をもって抵抗した。この人なしには、現在の日本の平和は、なかったのかもしれない。
尾崎が逝去したあと、有志の人々の間で、彼の生前の功績を顕彰しその思想を普及するため、彼の名を冠した記念館の設立が計画された。その後、有力議員により尾崎行雄記念財団が発足し、この財団によって建設されたのが、尾崎記念会館…現在の憲政記念館である。
そんな崇高な理念に支えられた記念館に、地下の都市伝説がある?
今日は早くも、地下の都市伝説の権威・秋庭俊先生の登場である。
一般の記念館の見学者にとっては、ここに壁があるだけである。壁のなかに何があるのかは確かめられない。(『帝都東京地下の謎86』洋泉社、P128)
秋庭先生は、自著の中で、この記念館の妄想を綴っている。今回は、憲政記念館の「壁の中の階段」に迫る。
尾崎記念会館の建設用地は、尾崎にゆかりの深い国会議事堂周辺を対称に検討され、衆議院の所管する国有地で皇居のお濠に臨む高台にある旧陸軍用地の一角が選ばれた。財団は、この地に記念館を建設し、建物は完成と同時に衆議院に寄贈し、国会施設として利用されるものにしたいとの方針を立て、衆議院の了承を得た。
何と、建設費は、国民各層から寄付金を募った。経済界から小中学生にまで幅広く呼びかけ、1億7000万円もの浄財が集められた。
こうして、尾崎記念会館が昭和35年に完成した。総面積2335平方メートル。約500人を収容する講堂をはじめ、会議室・図書室・展示室・食堂等を備えていた。ちょうど今の憲政記念館の右側半分である。
この建築設計も、国会議事堂や国会図書館のように、一般から公募した。一等に輝いたのは、海老原一郎である。
数年後、展示のスペースを増設しようと、建設省による補修改築が始まった。改築の費用は海老原のときの三倍近く、工事は十年に及んでいる。(『帝都東京・隠された地下網の秘密』新潮文庫、P104)
という事実はない。
当時の尾崎記念会館は、多人数の集会に利用する上では一応の設備を備えていたものの、展示や企画、憲政功労者の遺品の収集・保管などには不十分だった。そのため、議会制民主主義についての一般の認識と理解を深めるための憲政資料を収集公開する常設展示館の設立が構想された。そこで、尾崎記念会館に隣接して新館を増築し、完成後は旧館を合併吸収して一館とし、名称を「憲政記念館」とすることが計画された。こうして、昭和45年11月29日、起工式が行われ、1年後に竣工している。
費用は確かに3倍近くになっているが、衆議院は建設費の一部を出しているだけである。そもそも、尾崎記念会館自体、税金で建てたものではない。
作品がほとんど破壊されたにもかかわらず、世間知らずだったと、海老原は自らを責めている。(『同』、P106)
という事実はない。
秋庭先生は、こう書いている。海老原は、尾崎記念会館を設計した功労者だが、建設省が勝手に「補修工事」と銘打って、海老原の設計した建物を無茶苦茶に造り替えた。
が、そもそも、この大幅な増築をした新館の設計も、海老原が行ったものである。旧館を設計したのも、新館を設計したのも、海老原なのである。なので、海老原が、自らの責める理由はどこにも存在しない。まあ、出来不出来があるだろうから、自分の作品に不満を持っている可能性もないわけではないが、そもそも「破壊」したのは海老原である。
一般の参観は午後三時半までとすること、それ以降は国会議員の専用とすること、館長はいつでも閉館できることなどが決められている。(『同』、P107)
という事実はない。
「憲政記念館管理運営規則」には、こう書いてある。
第二条 憲政資料展示室及び尾崎メモリアルホールの公開時間は、午前9時30分から午後4時30分までとする。ただし、参観者の入館は、午後3時30分までとする。
それ以降、国会議員の専用とするという記述は存在しない。
ちなみに、会議室の使用申し込みの申請者は衆参両議員のみ。外部からの申し込みは受け付けていない。ただ、国会議員専用ではなく、一般の人も、その会議に参加するのであれば、使用可能である。この建物は、衆議院の施設なので、当たり前だよね。
また、事務の都合または緊急の必要が生じた場合には、館長は、公開時間または使用時間を短縮または延長することができる。これは、普通の博物館や美術館も同じである。
この案内図は先の一般用とは上下が逆さになっている。方位が合わせられたのではない。このような案内ではつねに入口が下にくるように書かれている。(『同』、P107)
「この案内図」とは、P109にある『衆議院ガイドブック』の「憲政記念館案内図」である。確かに、秋庭本に掲載されている図では、玄関が上にある。
秋庭先生、これ、何年度版の『衆議院ガイドブック』なのかな?
ちなみに、オイラのは、平成17年度版。17年8月1日現在で編集している。これにも同じ図が掲載されているが、入口は下にある。
秋庭先生の指摘を受けて、訂正したのだろうか(笑)
玄関脇の用務室とWCの左側が壁から張りだしているものの、一階にはそのようなものはない。(『同』、P108)
現場に行けば分かるが、そのようなものが、ある。
この記念館の一階二階をあわせると「WC」は八か所もあり、一般用のちょうど二倍になる。(『同』、P108)
実際に8か所ある。ただし、常設展示を見学する一般客が使用するトイレは、限られているだけである。
さて、一番最初に引用した秋庭本の文章に戻ろう。壁の中にある階段の正体。確かに、『衆議院ガイドブック』の図には、階段の隣に壁があり、壁の中にもう1つ階段があるように見える。
正面に尾崎の像を眺めながら、左側の正面玄関を入る。ここは、何段か階段を上がる。床が高い位置にあるのだ。玄関を入って、すぐ左前が受け付けカウンター。ここで、簡単なアンケートみたいなものを記入する。入場料は無料。
さて、いよいよ、展示室へ向けて、1歩1歩進む。すると…。
1つ目の回り階段である。
不可解なことにその先は壁がふくらんでいる。(『同』、P108)
確かに、壁はふくらんでいる。
が…。
壁は、ガラス張りで、中身が丸見えだ(爆)
壁の中には、階段がある(猛爆)
実はここ、外からの出入り口がある。自動ドアになっていて、普段は閉鎖されている。この階段を上がり、2階には特別会議室があるので、そこが利用されるときに開かれる開かずの扉ではないだろうか。憲政記念館は、1階が高床になっていて、入るときいちいち階段を昇ることになる。ここも同じで、入口は地面の高さで、階段をのぼると、1階の高さになる。
さて、憲政記念館には、地下がある。収蔵庫と空調設備らしい。収蔵庫には、憲政功労者の書跡・遺品、収集憲政資料が納められているということだ。
ところで、秋庭本は他にも、点線がどうだとか、エレベーターがどうだとか、いろいろと妄想しているが、ぜひ現地で確認してみてはいかがだろうか。確かに、その表示に意味があるということが分かると思う。
秋庭ワールドは知れば知るほど恐ろしく、しかも、荒唐無稽なものである。このような不可解な文章と図を並べていくと、それだけで1冊が終わってしまう。『帝都東京・地下の謎86』という単行本でも、よく調べもしないで、壁の中にある階段とか、妄想を書き連ねている。出版社というのは、こうした不可解な著作物を出版しているのかとも考えたが、オイラにはよく分からなかった。
しかも、こうした不可解な妄想はネット中に広がっていて、そこにはつねに信者入り浸りのスレッドがある。たいていは24時間書き込んでいる。ふと、そんなスレッドに迷い込んだりすると、まさに猛然と、「隠蔽派だ!」と非難される。
次回は、いよいよ、国会議事堂の地下の謎に迫る。
(つづく)
【秋庭系東京地下物語'07《秘密》】
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