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2007年3月12日 (月)

【秋庭系東京地下物語2007】(第1話)サンシャイン・シティの妄想

Sun1_1 そのビルを、人はいつしか、「墓石のようだ」と表現するようになった。地上60階を誇るビルは、建設当時、霞ヶ関ビルを抜いて、日本一の高さだった。

ここサンシャイン・シティの敷地には、かつて巣鴨刑務所があった。戦後、GHQはここを接収し、巣鴨プリズンとして戦犯を収容し、60人の戦犯がここで処刑された。日本が戦後を歩み出すにあたって、この土地をどう処理するのかは、まさに戦後処理の総決算でもあった。このビルの足下には、小さな区立公園がある。そこには、この地で処刑された戦犯60人を慰霊する碑がある。上を見上げると、確かに、サンシャインビルは、墓石のように見えないでもない。

この土地の処理は、戦後誰も触れることができなかった“戦争責任”の問題にも、深く関わっている。

サンシャイン・シティには、「幽霊が出た」という類の都市伝説が跡を絶たない。それは、この土地が抱えている「因縁」がもたらした「皿屋敷現象」のようなものだろう。地下の都市伝説の権威でもある秋庭俊先生は、『新説東京地下要塞』(講談社)の中で、「巨大な穴が工事を再開させた」と、この土地の地下にまつわる妄想を展開している。地下5階にある変電所といい、豊島区役所につながる地域冷暖房の洞道といい、ここは都市伝説を創り出すには、あまりにも舞台と小道具がそろいすぎている。

このシリーズの第1回目は、戦後の再開発の象徴とも言えるサンシャイン・シティにまつわる物語である。

『東京怪談ディテクション・都市伝説の現場検証』(広坂朋信著、希林館)の中に、「皿屋敷物件4条件」というのがある。

(1)まつられるべきものを持つ「因縁のある土地」がある

(2)土地の事情を無視したかのように思われる開発(建築)が行われる

(3)出る、という噂がささやかれる

(4)噂に尾ひれがついた挙げ句、住人が変わる、または居なくなる

サンシャイン・シティは、まさに上3つの条件までそろっている。

「因縁」とは、まさに巣鴨プリズンと、そこで行われた60人の死刑執行である。慰霊碑のある場所は、ちょうど絞首刑が執行されたところである。

「土地の事情を無視した」というのは、ここの開発が、構想が浮上して以来、地元豊島区の意向を無視したまま計画が進んだことが象徴している。

「出る」というのは、皆さんがいつも聞いている噂のことだ。

4つ目は微妙だが、秋庭俊先生が、自著の中で、「極秘変電所がある」とか、「地下処理した」と書いているところを見ると、十分尾ひれはついていると言えるだろう。

東京拘置所は昭和12年5月、巣鴨刑務所跡地(府中に移転)に新築移転したところから始まる。昭和21年4月、連合軍による施設接収のため小菅刑務所に移転。小菅刑務所と東京拘置所は併設していた。昭和27年4月、平和条約の発効に伴い、接収されていた巣鴨プリズンが返還され、巣鴨刑務所と改称。同所では、引き続き戦犯を拘禁し続けた。

政府は昭和33年2月、「東京拘置所の復元を含めた移転方針」を閣議決定した。その内容は、昭和37年度までに(小菅)刑務所移転を完了することを目途とすること、移転が完了するまで臨時的に巣鴨刑務所を東京拘置所に復元することだった。

昭和33年5月、巣鴨刑務所の戦犯全員が出所。巣鴨刑務所の戦犯拘禁終了に伴う措置として、法務省設置法の一部改正により、東京拘置所は、位置が葛飾区から豊島区に移り、巣鴨刑務所に併設。さらに、小菅刑務所所在地に葛飾拘置支所が設置され、巣鴨の東京拘置所の収容設備が完備するまでの間、仮の東京拘置所としての機能を担うことになった。

さて、こうして東京拘置所は、小菅に移転するまでの暫定期間として、巣鴨に置かれることになった。昭和33年10月、巣鴨の東京拘置所の設備補修が完了すると、葛飾拘置支所から東京拘置所への移転が完了する。併設していた巣鴨刑務所は、昭和37年3月に正式に廃止された。

ややこしくて分かりにくいかな。

(豊島区)東京拘置所→巣鴨プリズン→巣鴨刑務所→巣鴨刑務所(戦犯は釈放され、収容人数はゼロ)・東京拘置所(ただし、拘置所としての機能は葛飾支所が担うから収容人数はゼロ)→東京拘置所→サンシャイン・シティ

(葛飾区)小菅刑務所→小菅刑務所・東京拘置所→小菅刑務所・葛飾拘置支所→小菅刑務所→東京拘置所

拘置所って何?って人は、『元刑務官が明かす東京拘置所のすべて』(坂本敏夫)が詳しいので、東京拘置所の歴史も含めて勉強してみよう。刑務所と拘置所は違う。

さて、ここの辺りで、都市伝説の権威・秋庭俊先生の渾身の著書『新説東京地下要塞』にツッコミを入れておきたい。

昭和33年2月の東京拘置所早期移転の閣議決定が、国民には知らされなかったと書いているが、そんな事実はない。っていうか、この閣議決定には裏の意味があって、小菅刑務所が移転するまでの間、巣鴨を臨時的に東京拘置所として使うという決定は、巣鴨プリズン跡地の使い道はそれまでまっ白だよと国民に伝える意味があったのだ。地元豊島区では、議会を中心に「拘置所移転」運動が盛んだったが、これで運動は凍結状態になってしまう。

その裏で、政府は、財界と結託して、巣鴨プリズン跡地開発構想を着々と進めていた。跡地開発から地元を排除する、この閣議決定にはそういう意味がある。国民に伝えねば意味がない。

もう一つ。「驚くべき事実」として書いているが、昭和33年以降、東京拘置所には誰一人として拘置されていなかったという事実はない。

上を読めば分かるように、巣鴨の東京拘置所の設備が整うまでの間、小菅刑務所に併設した葛飾拘置支所で拘置が行われており、確かにそれまでの間、巣鴨には誰もいなかった。その後、ちゃんと巣鴨にある東京拘置所として再スタートしている。現に、先ほど紹介した『元刑務官が明かす東京拘置所のすべて』では、戦後の巣鴨の東京拘置所時代に、過激派ゲリラに突入され庁舎に垂れ幕をつるされたこともあったというエピソードが書かれている。無人の東京拘置所に垂れ幕をつるすほど、過激派はアホではなかったはずだ。

誰もいなかったうちに地下処理したというのが秋庭先生の主張なので、誰もいなかった事実が消し飛んでしまうと、この本は出だしからつまずいたことになる。

さて、話を元に戻そう。

巣鴨プリズン跡地は、その後も、政府・都・財界の思惑に翻弄されることになる。

昭和33年2月の閣議決定は、「東京拘置所早期移転」だったが、つまりそれは、巣鴨プリズン跡地の処理を決定したということでもあった。当時はA級戦犯の岸信介内閣である。その決定に深く関与していたと言われるのが、西武グループの創始者でもあり、衆議院議員の堤康次郎氏だ。ざくっと言ってしまえば、「巣鴨プリズン跡地は、西武が開発するから、それまで国が時間稼ぎしといてくれや」って感じだろうか。

当時、東京拘置所の移転の条件が、小菅刑務所の移転だったが、驚くべきことに、小菅刑務所の移転候補先としてあがっていた場所は、青梅にある西武の所有する土地だったのだ。もう、西武の魂胆は見え見えだったわけだ。刑務所移転先に困っていた法務省は、その話にすぐ飛びついた。

昭和39年夏、堤康次郎氏の息子・堤清二氏(当時の西武百貨店社長)が、「新都市開発センター発足準備会」を結成した。新都市開発センターとは、今の株式会社サンシャインシティの前身である。豊島区が作成した『豊島区史』(通史編)には、この事実は、地元にはまったく伝えられなかったと書いている。

一方、東京都の都市計画審議会は、独自に跡地利用構想を具体化。昭和39年6月には、拘置所跡地にバスターミナルと公共駐車場を建設すると発表。昭和40年9月には、都首都整備局が、インターチェンジ用地として計画していることを明らかにした。しかし、後に都は、財政上の理由により、正式に跡地買収を拒否。これにより、巣鴨プリズン跡地は、民間に売却することが決まる。民間とは言わずとしれた、新都市開発センターである。

昭和41年1月、法務省・都・新都市開発センター発起人が、敷地提供などに関する三者協定を締結する。これで跡地開発は、正式に新都市開発センターが実施することが決まった。同年10月、新都市開発センターが正式に発足。筆頭株主は三菱地所で、西武や大成建設など、財界を代表する企業が名を連ねた。

昭和42年2月、新都市開発センターと大蔵省・法務省との間で、「国有財産売り払い及び購入契約」に正式調印。

これは、センターが東京拘置所跡地の払い下げを受け、その見返りに東京拘置所を含む6カ所の拘置所・刑務所を建設し、国に譲渡するというもの。昭和45年度までに刑務所などの建設を完了し、46年以降跡地に再開発を開始し、49年にオープンする予定だった。

西武グループの執念は、ついに、地元を排除した民間主導の再開発を実現し、その見返りに拘置所と刑務所まで作って、国にお膳立てするという離れ業を成し遂げた。

が、そんなに話はうまくいかない。

小菅刑務所の移転先となるはずの青梅の市議会が、昭和42年6月、「刑務所設置反対」を決議する。移転先は西武が観光用に取得した土地。そりゃあ、地元は怒るわな。

昭和43年春、法務省は小菅刑務所の栃木移転を発表した。随分遠い場所になったものである。

昭和43年8月、この青梅移転の混乱の責任をとり、新都市開発センターの堤清二氏が役員を辞任した。

 

Sun3_1 サンシャインシティのすぐ裏には、小さな区立公園がある。その片隅に、ひっそりと慰霊碑が建っている。

サンシャインシティがオープンする前から、この地には「幽霊が出る」という類の都市伝説が語られていた。その根源は、この因縁にあると言っても過言ではないだろう。巣鴨プリズン時代、60人の戦犯がこの地で死刑に処された。彼らは、なぜ殺されなければならなかったのか。逆に言えば、60人が死んだことで、戦争の責任を清算することができたのだろうか。

みんな、誰もが感じているが、口には出さない不確かな戦争責任の問題。そんな場所に、地元の意向を無視して、突如わき上がった大規模開発構想。この場所に、時間を超えて現れる幽霊たちは、オイラたちに何を伝えようとしているのだろうか。都市伝説を創り出す温床には、必ず「意味」がある。じっくり耳をすませてはいかがだろうか。

Sun2 慰霊碑の裏側には、こんな文章があった。

第二次世界大戦後、東京市谷において極東軍事裁判が課した刑、及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。

昭和五十五年六月

 

 

【秋庭系東京地下物語】は、こんな風に、秋庭俊先生が教えてくれなかった事実や真実に迫ろうと思う。オイラが伝えたいのは、秋庭先生のどこが間違っていたかではなく、秋庭先生が自著でネタとして扱った出来事や事実の背景に潜む「真実」である。そこには、秋庭本では見えなかった人々の思いや、秋庭本とは違う側面から見た社会的背景があるはずだ。これは、秋庭系地下ネタを愛する人すべてに捧げる物語である。 

Kosuge1 さて、左にあるのは、無事に巣鴨から小菅に移転した東京拘置所。意外に近代的な建物だとは思わないかい? ライブドアの元社長が一時期入ったことでも話題になった。次回は、この小菅にある東京拘置所から始まる。時代は、1970年代、国会がデモ隊に包囲され、騒然としていたとき、国民には極秘裏に、霞ヶ関の東京地検と小菅の東京拘置所を結ぶ護送地下鉄が計画されていた。その地下護送ルートとは、どんなものだったのだろうか。秋庭先生は、今度は何を勘違いしていたのだろうか(笑)

次回の【秋庭系東京地下物語2007】は、霞ヶ関駅に停まります。

 

(関連するサイト)

サンシャインシティ 禁断のB5(書き散らsyndrome)

サンシャインシティ 空白のB3(書き散らsyndrome)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?17(そらめく日々)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?22(そらめく日々)

(ブログで紹介した書籍)

【秋庭系東京地下物語2007】

第1話 サンシャイン・シティの妄想

第2話 「極秘」護送地下鉄の妄想

第3話 水没した赤坂見附駅の妄想

第4話 区界の地下に流れる「川」の妄想

第5話 東京メトロ有楽町線の妄想

第6話 築地の運河跡にある「政府専用地下駐車場」の妄想

最終話 地下鉄サリン事件・霞ヶ関駅の真実

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