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2007年3月19日 (月)

【秋庭系東京地下物語2007】(第6話)築地の運河跡にある「政府専用地下駐車場」の妄想

Tukidigawa1 秋庭系地下マニアの皆さんなら、ご存知の、この中途半端な空間。左側の壁には、何やら鉄板らしきものが入口を塞いでいる。右側には鉄製の網が張り巡らされ、中を覗くと、どうやら警察車両が見える。

おおっ、これが噂の政府専用駐車場かと。

地下の都市伝説の権威・秋庭俊先生は、最初に洋泉社から『帝都東京・隠された地下網の秘密』を出版したとき、築地川公園の下に延々と続く政府専用の地下駐車場があり、それが第1、第2、第3とあると書いていた。しかも、2000~3000台もの収容能力があると。ところが、新潮文庫版で出版すると、この第1、第2、第3は、一般には知られている駐車場だと言い、この他にさらに、政府専用の地下駐車場があると言い出した。間違っていたなら、すいませんと謝るのが筋だが、いつの間にか中身を書き換えるのは、秋庭先生ならではの逃げ口である。

ああ、もう、ここまでお読みになっている皆さんは、お分かりの方が多いのだろうね。ここには、政府専用駐車場はない。結論から言うと、この写真の空間も、築地川公園の下にある空間も、首都高速道路の用地である。が、その計画は、今も白紙のままで、首都高が整備される見通しは立っていない。運河を埋め立て、基盤整備までして、あとは首都高が走るのを待っているだけの空間。ここは、これから、どうなるのだろうか。

そこから分かったのは、日本の道路行政が抱えた矛盾だった。

Tukidigawa2 はい、ここが、政府専用の「築地川第二駐車場」……って、もういいって?(笑)

かつての運河が埋め立てられた場所には、地下1階に首都高速道路が走る空間が用意され、地上には、区立築地川公園や区営の自動車駐車場が整備されている。地下鉄の新富町の駅を、新木場方面の出口に出て、すぐの場所に冒頭の、運河跡が直角に曲がる地点がある。そこを築地市場方面に向かうと、ビルとビルに挟まれて、公園や駐車場が、築地市場の手前まで続く。

オイラのブログではお馴染みになったが、東京都都市整備局の「都市計画情報インターネットサービス」をご覧いただきたい。

中央区の明石町か築地3丁目を検索すると、運河跡が直角に曲がる地点を見つけることができるだろう。これを見ると、この運河跡に、「高速道路晴海線」が通る予定になっていることが分かる。高速道路1号線(いわゆる首都高都心環状線)の三吉橋付近から分岐して、新富町ランプを超えたところで、築地市場方面に曲がるルートと、都心環状線の銀座ランプ付近から、市場橋公園や場外市場の建物などが立ち並ぶところを進むルートが、途中で合流し、勝鬨橋の下流方向で隅田川を渡り、現在トリトンスクエアのある場所あたりで晴海通と合流する。

この高速道路晴海線(いわゆる首都高晴海線)は、この先、晴海運河を渡り、江東区有明で、首都高湾岸線に合流する。

ちなみに、都市計画では、都心環状線から隅田川を渡るまでは地下、晴海から湾岸線までは高架となっている。

少し時代を遡ろう。

1957(昭和32)年7月、建設省は、「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」をまとめ、路線の経過地は極力不利用地、河川上などを利用し、やむを得ない場合は、広幅員(40メートル)の道路上に設置することを決めた。これが、運河や外濠を埋めたり、その上に高架を作るような首都高速道路ができたきっかけである。

同年12月の東京都市計画地方審議会も、付帯意見として、外濠と日本橋川を利用する区間については、神田川との治水上の関連を慎重に検討の上、可能ならば河床を通すこととし、もし困難な場合は、高架方式又はその他の方法を検討することを求めた。

これ以降、高度経済成長がピークを越えた昭和40年代末にかけ、東京の運河や川は、ことごとく埋められ、その上が道路に変貌している。首都高晴海線の経路の運河が埋め立てられたのも、1971年(昭和46年)のことである。こうした国や都の方針は、もちろん、当時の道路事情の悪化が一番大きな要因だ。この時期、道路が空いていたと思いこんでいるのは、秋庭先生くらいだろう。でも、実は、もう一つ、深刻な事情が隠されている。それは、都市河川の汚染なのだ。

追記(2007年4月2日)…首都高晴海線の経路の運河が埋め立てられた時期は、埋め立てた場所によって変わります。築地川東支川の小田原橋・海幸橋から隅田川までの間については、平成に入ってからでした。

昭和40年代以降、特別区の議会には、河川の埋め立て促進を求める陳情・請願が相次ぐ。特に、多くの水路網を抱える中央区は、深刻だった。河川の上流部では、下水道未設置の地区が多く、川に直接雑排水を流していた。中流部では工場排水がほとんど処理されずに川に流された。そして、下流部は、そうした上・中流部からのツケが一気に堆積する場所となった。都市部で喘息が蔓延し、川の河口部では商売がままならないほど空気の汚染が進んだ。

そんな状況が、高速道路の整備という喫緊の課題と結びついた。

今、東京の運河跡に高速道路が走っている背景には、そんな事情がある。

首都高晴海線の用地は、かつての築地川の支流にあたる。ここも、将来の高速道路用地を念頭に埋め立てられた。

が、昭和48(1973)年秋・オイルショック。

これを機に「道路整備長期構想」が抜本的に見直され、将来の高速道路ネットワークが大幅な見直しを求められたようだ。

再びこの用地に光が当たったのは、それから10年近く過ぎた昭和61(1986)年。日本はバブル経済に沸いていた時期である。東京都は、臨海副都心開発を妄想…失礼、計画し、有明・台場の埋め立て地がにわかに脚光を浴びてきた。そんな中、1986年12月、「首都圏整備計画」の中に、都心と副都心、そして臨海部を連結する道路網の整備を目的として、この高速道路晴海線が位置づけられたのである。

その後、江戸橋ジャンクション付近の混雑解消、放射34号線(晴海通り)の混雑緩和、臨海副都心や豊洲・晴海地区の開発促進などに寄与する路線として、昭和63(1988)年3月に、新規調査路線として採択を受け、「東京臨海部開発推進協議会」の整備促進の方針決定を得た。現在のルートが確定したのも、この頃である。

1993(平成5)年7月、高速道路晴海線は、正式に都市計画決定された。

が、ここから再び、晴海線に暗雲が。

『首都高速道路公団史』によると、採算性の確保策の具体的な手法、事業実施に向けた具体的な事業調整について、さらに十分な検討を進め、関係者間で合意形成を図る必要があることから、翌1994(平成6)年度事業計画では、「着工準備費」として事業採択された。まあ、ざくっと言えば、国・都と公団など関係者の間で折り合いがつかず、建設にGOサインが出なかったわけだ。

そして、バブル崩壊。臨海副都心開発への都民の批判。

さらに、青島知事の誕生と、臨海副都心開発の見直し。

この晴海線そのものの必要性に、誰もが疑問符を打つようになった。

そんなわけで、今でも晴海線のために用意した用地は、上を蓋で塞いで、目的もハッキリしないまま残されている。

ちなみに、直角の曲がり角で右に行けば築地市場だが、左側の鉄板は何?

これも、東京都都市整備局のインターネットサービスで確認すると、何となく分かる。都心環状線から分岐した路線が、現在は入船橋の手前で出口になっているけど、都市計画上は、さらにこの曲がり角のところで左側の道路の地下に潜り、佃大橋の手前で道路の中央から地上に出口ができる予定らしい。おそらく構造上、佃大橋方面に出る役割と、佃大橋方面から晴海線の築地市場方面へと入る役割があったのだと思う。

この高速道路晴海線、最近、再び再始動した。

ここ数年、日本経済の景気が上向いてきたこと、臨海副都心開発がようやく形になってきたこと、そして、豊洲に築地中央市場が移転することが決まったこと、様々な好条件が重なったのであろう。ただし、かなり中途半端である。高速道路晴海線と言うより、“高速湾岸線の晴海出入り口”として、事業が採択されたのだ。

Harumisen1 現在、江東区有明から晴海に至るルートには、一般道路の放射34号線(晴海通り)の支線が完成している。左の画像が、それ。奥に見える2本のビルが、トリトンスクエア。真ん中に空いている用地の高架を高速晴海線が通る。画像を見れば分かるけど、道路はガラガラである。この一般道路に沿って、晴海線を、有明から晴海まで通す。

現行の都市計画では、晴海以降、都心環状線に合流するまでの間は、地下に潜ることになっているが、今回の建設はその手前でストップしてしまう。

話が違う!

地元の住民が噛みついた。環境アセスでは、高速晴海線は、江東区有明から晴海まで高架、晴海から銀座まで地下という想定だった。それが、有明・晴海間でストップ。残りの区間は、まったく見通しが立たない。このままだと、湾岸線の車が晴海で溜まる。もともと一般道の放射34号があるのだから、その上を高速道路を通す意味があるのか。環境アセスは、全線が完成し、晴海から築地方面が地下に潜ることを前提に行ったのだから、アセスの前提が狂ってくる。

住民の声も空しく、工事は始まり、着々と進捗している。晴海の出入り口は、「仮出入り口」となるらしい。「仮」とは、まだ先に続くよという意味を込めているらしいが、公団が民営化された首都高速道路株式会社のサイトには、首都高速晴海線の区間を、ハッキリと「中央区晴海~江東区有明」と表現していた。

では、築地川公園などの下にある地下空間は、いったいどうなってしまうのか。

都市計画法上、晴海線の都心環状線につながるルートは、今も生きている。が、関係者の話を総合すると、このルートが完成することは、もうないのではないかという見方が一般的である。首都高速道路公団の時代と、民営化された首都高速道路株式会社の現在とでは、あまりにも社会環境が違い過ぎる。今、東京の道路行政の最大の課題は、3環状(中央環状・外環・圏央道)の建設。それすら完成していない状況で、隅田川を地下で潜り、都心環状線と湾岸線を結ぶという、あまり緊急性が求められない高速道路を建設することは、ほとんどあり得ないと言っていいだろう。仮に建設するとしても、採算性が合うのかという検討も必要になる。

しかも、公団の民営化は、過去の道路行政に対する反省から始まったものだ。これまでの計画線をそのまま建設しようとするなら、採算性や事業主体など、様々な点から説得力のある説明がないと、実現することは難しいだろう。

それにしても、事情があったとはいえ、運河を埋め立て、何に使うのか目的がハッキリしないまま、都心の広い地下空間を持て余している光景は、何とも複雑な感じだ。前回の有楽町線でも紹介したが、東京のあちこちには、こういう無駄になった空間が、地上にも地下にもチラホラと見られる。日本の高度経済成長が残した遺跡とでも言うのだろうか。地下に残された玉川上水、池袋駅の閑散とした地下道、そして、築地川支流の埋め立て跡…。これらは、オイラたちに何を語りかけているのだろうか。

 

さて、次回はいよいよ最終回。地下鉄は基本的には各駅停車だよね。今は、急行とかエアポート快特とかが走っているけど、かつては全部の駅を停まるのが当たり前だった。でも、日本の地下鉄の歴史で、停めたいのに停められなかった事件がある。1つ目は、戦争が終わってすぐの頃、銀座線は、焼け野原になった東京下町にある駅を通過していた。2つ目は、国会がデモ隊に包囲されていた時代に、丸ノ内線の国会議事堂前駅が封鎖され、電車が通過した。そして、最後は…。

次回の【秋庭系東京地下物語2007】は、国会議事堂前駅に停まります。

(ブログで紹介した書籍)

【秋庭系東京地下物語2007】

第1話 サンシャイン・シティの妄想

第2話 「極秘」護送地下鉄の妄想

第3話 水没した赤坂見附駅の妄想

第4話 区界の地下に流れる「川」の妄想

第5話 東京メトロ有楽町線の妄想

第6話 築地の運河跡にある「政府専用地下駐車場」の妄想

最終話 地下鉄サリン事件・霞ヶ関駅の真実

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