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2006年10月の23件の記事

2006年10月30日 (月)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?31

ここまで読んでも、それでも現代の地図に改描があると思いこんでいる方々に、今夜はさらにだめ押しをしていこうと思う。

『帝都東京・隠された地下網の秘密2』(新潮文庫)より。

「序 七つの謎」では、『大きな字の地図 首都圏7000』(人文社)の地図を引用して、あちこちに「市役所前」というマークがついていることを丁寧に1つ1つ説明している。

一般的には、めったにこのようなミスは起こらない。しかも、人文社は地図のプロフェッショナル、確かな技術で知られている。その人文社から出版されているにもかかわらず、なぜ、これほど明らかな誤りが多いのだろうか。(P18)

皆さんは、この手の描画ソフトを使ったことがあるのだろうか。当たり前のことだが、この地図は手書きではない。おそらく描いた担当者は、パソコンの画面とにらめっこして、この地図を製作しているはずである。驚いたのは、秋庭俊さんは、この誤りについて、人文社に取材すらしていない。

私の問い合わせに、先方では担当がいないということだったものの、担当がでてきたときは、おそらく、何らかのミス、誤植ということになるのだろう。(P18)

何と、担当者がいないという、ただそれだけで、人文社が嘘をついているという結論を出している。秋庭さんの取材の特徴で、取材は形式に過ぎず、取材によってどんな回答があったとしても、その回答は、「隠している」「嘘つき」呼ばわりされる。

描画ソフトを使っていると、同じ記号を繰り返すことが多い。この「市役所前」の記号もそうである。同じ記号を一から繰り返し作成することは、かなり面倒である。形を作って、色をつけて、そこにテキストを挿入する。そんな作業を永遠と繰り返す。そんなことやっているとキリがないから、最初にテキストの入った記号を作ると、同じ記号をテキストごと、あちこちにコピーする。コピーした後に、記号のテキスト部分を片っ端から、本来のテキストに書き換える。このブログを読んでいる方は、Webに詳しいだろう。Webサイトにあるボタン、あれも同じように、最初にテキストの入ったボタンをつくり、ボタンのいろいろな設定を加えて、片っ端からコピーする。で、テキストの部分を書き換える。

お分かりだろうか。「市役所前」が何故たくさんあるのか。それは、作成者の単純ミスである。そんなことあるのかって疑問に思うかもしれないが、はるか昔から、地図は間違いだらけである。秋庭さんは、嫌味ったらしく人文社をプロフェッショナルとか書いているが、この「市役所前」が乱立する間違いは、パソコン時代だからこそ起きることで、手書きの地図ではあり得ない間違いである。

そもそも、担当者がいないだけで、人文社の地図は改描と断定しているのだから、秋庭さんは、ジャーナリストとしての責任を放棄している。

20ページで、六本木の交差点が「新宿一丁目」になっている誤りについても、同じことだと思う。ちなみに、この新宿は、皆さんのお馴染みの、都庁が建っている新宿ではない。どこの新宿かは、皆さんのお手元にある地図で確認してほしい。秋庭さんは、おそらく、この「新宿一丁目」のことを新宿区にあるものだと勘違いしているはずである。

で、何故、秋庭さんがこんな勘違いを始めてしまったかというと、改描についての理解が根本的に不足しているからである。

秋庭さんは、「第3章 暗号地図」で、江戸時代の地図には、暗黙の約束事があり、これが暗号のルーツだと説明している。

江戸図では、江戸全体を1枚の地図に収めていた。(P118)

これは誤解。江戸時代に大ヒットした近吾堂の地図は、三十何枚かで1セットになっていた。

『歴史文化ライブラリー168 江戸の地図屋さん 販売競争の舞台裏』(俵元昭、吉川弘文館)では、当時の地図がどう作成され、地図販売業者が地図作製をどう競っていたかを解説している。

江戸時代の地図販売の2大勢力がある。それが、近吾堂と尾張屋。

当時の地図には、表記の原則があった。文字の書き出しの頭が、門・玄関など路面からの入口の方に必ず当てられる。これは、日本の地図が科学的実測にもとづいて始められたと考えられる明暦年間(1655~58)以降に見られる。文字列の最初の字は道路に最も近く書かれている。

より広大な範囲の、より詳細な地図を必要とするようになると、地図自体が大きくなる。当時は老眼鏡も虫眼鏡もないから、当然、地図を大きくしないと読めなくなる。幸い、日本の部屋の床は畳で、土足ではないから、床に地図をだーっと広げることができて、あっちから見たり、こっちから見たりと、地図を回り込むことが可能だ。そんなわけで、当時の地図は、この形式が当たり前になった。

このうちの尾張屋の地図は、独特な特徴があった。それは、地図上に示す大名屋敷の家紋。大名の江戸参勤中に居所とする上屋敷を家紋で示したのだ。大名に限らず、一般に武家屋敷・公儀の用地は、私宅・役宅を問わず、表札や看板類の表示がなかったから、大名屋敷で石高くらいは規模や構えから推測できても、誰の屋敷なのか街路からは何も分からなかった。そんなわけで、紋所は、必ずしも一家一紋に限らないにせよ、主要な紋を駕籠その他につけているから、識別の大きな目印になったのだ。

秋庭さんは、「暗黙の約束事」として、「紋があるところに屋敷の正門がある」(P117)と書いているが、おそらく誤解で、そもそも紋が書いていない地図も当時はあった。尾張屋と競った近吾堂の地図は、どっちかというと正当派の地図で、紋はなかった。江戸時代、たくさんの地図作製業者がいて、激しい競争をしていたので、現代と同じで地図を他業者と差別化しなきゃいけない。そんなわけで、家紋による大名の上屋敷の表示という描写をした業者があった。それだけじゃなくて、道路にしても、大路だけを平行線にして、細路は墨だけの線にとどめるといった、地図の見やすさにこだわる業者が現れた。

つまり、家紋は、当時の地図業者のサービスである。

オイラの持っている現代の地図では、牛丼屋やコンビニ、ファミレスに、会社のマークが表示されている。それと、同じ論理だね。

で、間違えてはいけない。

これは、暗号とは何の関係もない。文字の並べ方は、当時、地図を使う人間は誰もが認識していることで、暗黙の約束事ではあっても、暗号とは何の関係もない。にもかかわらず、秋庭さんは勝手に、自分の地下の話と結び付けを始める。そもそも、この地図がどの業者が出版したのかという特定もされていない。江戸時代、地図は、町人の間で大々的に販売されている。そんな地図に、地下網の秘密を記号化して、どうしようというのか。地下網があるなら、幕府の人間が勝手につくって持っていればいいだけである。市中の町人が読む地図に地下網を示す記号を書き入れて、いったい誰が使うというのだろうか。これは、幕府がつくった地図ではない。文字の並べ方も、家紋も、業者が考え出したサービスの一環である。

つまり、秋庭さんは、改描の意味を根本的に誤解している。

そもそも、地図は、記号によって省略や強調が行われるものであって、それをもって、当時の政府が何かを表現したり、隠したりしているとは限らない。省略も強調もされていない、記号もない地図など、表現不可能である。これは、地図そのものの性質であって、意図的に盛り込むべき情報を省略する改描とは、何の関係もない。

このように真実とはちがう記号を地図の上に掲載し、一部の集団にだけに通じる暗号をつくることを改描という。(P142)

そんなわけで、この改描の解釈は、秋庭さんの妄想で、改描とはこんなものではない。改描とは秋庭さんの解釈とは真逆で、軍事上重要なものを地図上から消去したり、消去した跡にその代わりとなる記号を掲載することや、本来はないはずのものを地図上に掲載することである。つまり、書き加えられた記号のどこを調べても、そこには記号の示したものは何も見つからないというのが改描である。

さて、10月ももう終わりが近づいた。このブログでは1年近く、秋庭さんの著作を検証する作業を続けてきたが、年末に向けて、そろそろ一区切りをつけようと思っている。タイトルが、「東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?」なのだから、本当か、嘘かという結論が必要だろう。

それは…

つまり…

まだ10月だから、断言するのはよそう。いったい秋庭さんは、どこまでが確信犯で、どこまでが天然なのだろうか。もう一度、オイラのブログを振り返ってみて、皆さんなりに考えてほしい。これでもまだ、政府専用地下鉄が走り回っていると思ってらっしゃるだろうか。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。

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東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?

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『新説東京地下要塞-隠された巨大地下ネットワークの真実-』を読む

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『写真と地図で読む!帝都東京・地下の秘密』(洋泉社MOOK)を読んでみた。

『大東京の地下99の謎』(秋庭俊著、二見文庫)を読む

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2006年10月29日 (日)

青くて臭いのを飲んで、数時間くらいは寿命が延びたと思った夜のライブ

昨夜のことになってしまうが、usuのライブを観に、高田馬場の四谷天窓へ。同じビルの5階にある四谷天窓.comfortへは、何度か足を運んだが、本家本元の天窓へは、移転後初めて訪れた。四谷時代の天窓は、狭くて、でも、アットホームで、人がひしめき合っていたけれど、ここは広い。お馴染みの木の看板は、四谷のをそのまま持ってきたらしい。

今夜の企画は、ギター弾き語りの中川和弥くんの企画「できるだけ長生きしようでぃ 其の八」。このイベント、参加するたび、中川くんの人柄があらわれて、集まってくるアーティストも暖かい人たち。イベントの最後に、青くて、臭い、青汁を飲むのも恒例となった。オイラは、このイベントの第1回だったか、usuのライブを観にきたとき、生まれて初めて青汁を飲むという、何だか、嬉しいやら悲しいやらの健康増進イベントである。

usuは、この企画、3回目くらいの登場。

今年のお歳暮は、カステラにするか野菜ジュースにするか迷っているそうである。

オイラは、自慢じゃないが、未だにお歳暮とかお中元って、贈ったことがない。だからと思うけど、その類も我が家には届かない。日本には、どうしてこんな習慣があるんだろうと、未だにぴんとこない。年賀状も真面目に出さないしね。フォーマルに、他人に何かをあげたりって苦手なのである。そのわりに、誕生日に花束なんて、クサい真似を平気でやってしまう。

甘いもの大好きならカステラだけど、最近太り気味なら野菜ジュースかな。

青汁ってのは、いかがでせう(笑)

相手によっては、強烈な嫌がらせになるだろうなー。

でも、どっさり青汁贈ってもらえたら、さぞや健康になると思う。

そんなイベントの帰り、新宿駅のホームで、スパイダーマンを見かけた。もちろん、あの全身タイツである。各駅停車のホームに、他の乗客たちと混じって、普通に列に並んでいた。悪と戦いに行くのか、それとも悪と戦った帰りなのか。

帰りなのかな。

各駅停車だしね。急いでないみたいだしね。

ハロウィンっていつだっけ?

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2006年10月27日 (金)

みそぎ

いや、もう、ともかく、半年以上ライブに通っていないと、忘れられても仕方ないくらいだ。

どうしたんやろーって、思ってたんですよ~!

と、谷口深雪様は、半ばふくれっ面で叫んだ。

いやはや、久しぶりなのだ。

今夜は、大手町にあるピアノ・ダイニングマンハッタンブルー。ディナータイムには毎日、ライブが行われる。谷口深雪ちゃんは、ストリートライブで育ってきて、四谷天窓をはじめ、あちこちのライブハウスで唄うピアノ弾き語りのアーティストさん。こんなオシャレでゴージャスな場所で、本人も、ちょっとビビっている様子。ライブの前に、フラフラとピアノの前までやってきた彼女は、ぽかーんと口をあんぐりと開けたまま、天井を見上げた。

高い天井。太い柱が、でーんと、2階分はある高い天井に向けてそびえ立つ。

さながら、生まれて初めて上京して、高層ビルを見上げてぼう然とする関西人・・・そんな感じだった。

でも、彼女は、それなりのキャリアを持っている。

歌い始めると、気持ちよいほど、大人っぽく、優しく歌い上げる。

力強く鍵盤を打ち鳴らすのが、彼女の持ち味でもあるが、今夜の彼女は、優しく、静かに、ピアノを奏でる。

ライブが終わり、スタッフH氏が、オイラの肩をぽーんと叩いた。

次はいつ来る?

うーん。いつやろ。

今夜も、もう少し早く会社を出るつもりが、現地に着けば、すでに午後8時。

このブログを読んでいる皆様はご存知だろうが、行きたいライブの半分も行けていない。今月は随分行けているほうで、半年以上ご無沙汰している方々に向けて、みそぎライブツアーとなっている。

行くのか、行かないのか、よく分からない返事をして、オイラは店を後にした。

さてさて、次は誰のみそぎに行くことになるのだろう。

その前に、明日は、天窓で、青くて、クサいのを飲む予定である。

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2006年10月26日 (木)

ほんまに衝動的に有給休暇を取ったものの、結局、ぼーっと過ごした1日

週初めは休む予定なんてなかったが、昨日、外回りの予定を調整していたら、今日はアポがないことが分かった。となると、アポなしでいろいろと攻めてみるのもいいのだが、ふと、ここんとこ忙しい毎日で、土日が潰れることもあったから、休んでしまおうということになった。

たまには1人で遠出してみてもいいと思ったし、温泉でも入ってのんびりするのもおつだなあなんて妄想もしてたりして。そう言えば、最近、江ノ島にも行ってないなあ。映画って、なんかおもしろいものやっていたっけ。

昨夜は、少しだけ残業をこなすと、四谷天窓.comfortへと行き、ピアノ弾き語りを楽しみ、帰ってきたら若干夜更かしして、普通に床についた。

で、起きたら、お昼。

ありゃー。

こんなもんだよな。オイラは、ナマケモノの子孫だからさ。ちょっと頑張りすぎたから、休息をとろうなんて思うけど、結局、何もしないで終わる。休もうなんて思うのはナマケモノそのものなんだけど、休んでもだらしなく過ごすのもナマケモノなんだよね。

つまり、オイラは、働いていても、働いていなくても、ナマケモノってことなのだ。

午後になって、駅前のマッサージ屋さんに行った。

「今なら70分以上のコースですと、ポイントWですが」

そんなお姉さんの甘いささやきにまんまと引っかかった。

70分間、フニャフニャになるまでマッサージをしてもらった。

帰り道に、いつもの育毛剤を買った。

30歳過ぎたおじさまのたしなみである。

明日は、仕事へ復帰。

とりあえず、日本ハムファイターズ、日本一おめでとう。

オイラは、ハムが大好き。いや、ほんまに。

それと、札幌は、心の古里のような場所。

ちなみに、名古屋は、マジ古里。

うーん。

@@

@@@

おやすみなさい。

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2006年10月25日 (水)

よちよち歩きの頃から見ていると、ついつい応援したくなることがある、そんな今夜のcomfortだったりする。

いや、よちよち歩きったって、赤ちゃんじゃなくて。インディーズの方々のライブに顔を出していると、たまたま出会ったアーティストさんが、やけに気になったりすることがある。お目当ては他の人やってんけど、こういうのは運命なのか偶然なのか、たまたま何度も、そのお目当て以外の方に2度目の遭遇をすることがある。同じライブハウスに通い続けると、同じ人に何度も遭遇することもある。

最初に逢った時には、たどたどしいというか、まだまだ不器用で、伝えたい音もよく伝わらないようなライブだったけれど、2度目のライブでは、技術も上達して、それなりに様になっていて、ずいぶん成長したなあ、なんて感心。3度目は、すっかりステージにはまっていて、いつの間にか一人前のミュージシャンっぽくなっていたりする。

ふと久しぶりにサイトを訪れると、彼女のファンがたくさんいて、ああ、あんなヨチヨチ歩きの人が、こんなに大きく育っているんだなあって。ライブハウスって、こうやって、新しい人が現れては消え、現れては消え、そんな世界なのかもしれない。

さて、今夜は、珍しく仕事もそれほど忙しいわけでもなく、明日はそれとなく有給休暇も取ってしまうくらい、何気ない余裕がある夕べ。でも、そんな余裕は、夕方になって気づき、最近行きたいライブの半分も行けずに欲求不満だったオイラは、ふと四谷天窓のスケジュールをチェックした。

すると、高田馬場に移転したばかりの四谷天窓.comfortに、川畑李子さんの名前。

ああ、この人、日本松ひとみちゃんとライブで対バンだったことがある。お友達同士だった覚えが。あのとき以来、ライブの告知メールはいただいていたのだけれど、いつの間にか、何ヶ月もご無沙汰していた。

まだまだ成長過程にあるけれど、たまにライブで出会うと、着実に1歩前に歩いている人。

今夜も、最初に逢ったとき比べると、随分、表情も歌い方も変わったような気がする。

最後に唄った「shine」は、自分の気持ちを唄った歌らしいけれど、今夜一番冴えていた歌だと思う。

うん。

この子、来るね。

オイラは、音楽に関しては素人やけど、何となく感じている。川畑さんはまだまだ、天窓でお馴染み、このブログでお馴染みの方々と比べたら未成熟なところが多いかもしれへんけど、何となく可能性のようなものを感じる。

まだ20歳だそうで…。オイラが少し早めに結婚していたら、娘くらいになるか(爆)

今夜、お客さんは少なめやったけど、天窓のちょっと辛口な常連な皆様、だまされたと思って、ちょっとチェックしてみてはいかがだろうか。オイラも、なんたって、自分のお気に入りのアーティストのライブさえ満足に通えないのだから、次がいつになるか、想像もつかないのだけれど、たぶん運が良ければ、再び、高田馬場でお会いすることもあるかもしれない。

オイラは、アーティストさんの宣伝なんてめったにやらないけれど、まあ、今夜は大サービスで、彼女の次のライブを。

11月20日 千葉ANGA

12月11日 下北沢mona records

12月16日 STARBUCKS COFFEE 千葉中央駅店

12月18日 千葉ANGA

・・・みたいである。

えっ、スタバでライブ?

余談だが、オイラは、スタバの株主である。

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2006年10月23日 (月)

もう半年ぶりくらいで、すっかり忘れられているやろうけど、今夜は久しぶりの日本松ひとみさんのライブ

オイラみたいにいろんなライブハウスを駆けめぐっていると、いつの間にか姿が見えなくなる人もいれば、大きく羽ばたいていく人もいる。長い間、インディーズ一筋の人もいるし、昔は弾き語りやったけど、今はスタンディングで唄っている人もいる。

今夜は、10周年を迎えた渋谷7th floorで、日本松ひとみさんのライブ。オイラのブログでは、ランチでお馴染みのナナカイである。ナナカイさん、お誕生日おめでとー。

日本松ひとみさんは、昨年の夏くらいに最初に、四谷天窓.comfortで出会ったピアノ弾き語りのアーティストさん。出会った当時は、

って表情で、ぽかーんとしていたけれど。

いや、今でも十分、ぽかーんとしているんだけど(爆)

月に1回くらいライブを拝見して、ここ半年くらいご無沙汰していたら、ちょっとあか抜けた感じがして、成長の跡が伺えた。

少し斜め上を見上げながら唄う癖は、昔から変わらないけれど、表情豊かに、楽しそうに唄っている。囁くような歌声だったのが、いつからか、訴えるような力強い歌声になった。最初のうち、試し試し唄っていたけれど、だんだん、歌が完成している気がする。

ポカンとしたMCは、相変わらずだけど。

大きな事務所に所属して、きっと大きく羽ばたく準備をしているのだろうけれど、ええ子やねんから、ちゃんと育てて、ウマい具合に羽ばたかせてほしいものである。

ふと振り返れば、今年の4月以来のライブ参戦。

オイラのケータイには、彼女のCDの曲が入っている。

「勿忘草」

この子、20代前半のくせに、くいーっとしみる歌を唄う。

あの子から、どーやって、こういう歌がにじみ出てくるんやろか。

実は、ライブで聞いたことは、1回しかなくて、今夜はCDの曲を1曲も歌わなかった。

せつない恋をお持ちの方、一度お試しを。

・・・・・・

さて、余談だが、つい先ほど、オイラのブログの総アクセス数が6万を超えた。トップページにあるカウンタは、もう少し6万まで余裕があると思う。この差は何?ってのは素朴な疑問でよく分からない。

つくづく、大勢の人が読んでいてくださる。

ありがたや、ありがたや。

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2006年10月22日 (日)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?30

秋庭俊さんの書籍を読んでいらっしゃる方は、現代でも改描があると思いこんでいる人は多いと思う。

まずは、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)から。秋庭さんの地下の陰謀説は、ここから始まっている。

だが、千代田線の線路図の色が入れ換えられていた。設計士のプライドを叩き割るような行為だった。このような強権的なことをするのは政府以外に考えられず、政府にとっては地下鉄が交差していてはならないと知った。それと同じ作為が国土地理院の原図にあった。このとき、改描を思い出した。(P68)

地図を書き換える、というのは、意外に昔から行われている。明治時代以降、例えば、東京の地図にある宮城(皇居)は、真っ白だった。そのほかに、横須賀鎮守府(軍港)を覆う地帯は、地図から存在が消されていた。三浦半島が丸々消されている地図もある。当時は、呉、舞鶴、佐世保、長崎といった軍港のある地域、津軽海峡、関門海峡、豊予海峡、対馬海峡など軍事上重要な地域の周辺で、こうした改描が行われた。ただ、これは、いわゆる戦時改描とは別ものである。

1937年(昭和12年)、日中戦争勃発直前の6月、参謀本部は、一般販売のものに限り、国土防衛上、秘密保持を要する土地・建物を地図上で偽装改描する方針を固め、9月に参謀総長命令の改描を指示した。これが、いわゆる「戦時改描」である。

1939年(昭和14年)からは、新聞雑誌その他の出版物に掲載する民間の地図にも、陸海軍の「検閲」を行った。1941年(昭和16年)、地形図が全面発売中止となった。秋庭さんは、地図が発禁になったように書いているが、それは誤解。「地形図」である。

さて、現代では、オイラたちの日本では、地図が改描されたり、検閲されることは考えられないけれど、例えば、タイの地図作製機関は軍隊なので、やはり地図が改描されていることがある。韓国では、5万分の1地形図とそれよりも大縮尺の地図には、国外への持ち出しが禁止されており、複製も禁止されている。

では、日本はどうだろうか?

その前に、下記の本を紹介したい。

『地図は嘘つきである』(マーク・モンモニア著、渡辺潤訳、晶文社)

この本で著者は、「地図で嘘をつくのは簡単だ。というより、地図はもともと嘘つきである」と述べている。「ひとつの地域についてのデータからは何種類もの地図が作成可能である。1枚の地図は、その中のたったひとつにすぎない」

地図が嘘をつくのは、どんなケースがあるのだろうか。

第1は、地図作成上の不注意。

1つの地図から別のものへと情報が転用された場合には、脱落や取り違えが特に起こりやすい。大きな縮尺の基本地図から小さな縮尺の派生地図に適切に情報を移しかえるのは、簡単な仕事ではない。

著者はこう述べて、ニューヨーク州シラキュース市が発行した街路図に、地図にしかない通りが2本あるというエピソードを紹介している。

これは不作為の間違いだが、わざとする間違いもある。

これもアメリカの話だが、地図発行者が著作権保護情報の盗みに対する防止策として、「おとりの道路」を加筆することがあったらしい。おとりの道路は、普通は分かりにくくされていて、地図の利用者を混乱させたり、怒らせたりしないように、邪魔にならないところに置かれるそうだ。

1979年のミシガン州高速道路地図には、2つの架空の町が記述された。この地図の作製者が、ミシガン大学フットボールチームのファンだったために、チームのニックネームを架空の町として表してしまったらしい。

つまり、地図は嘘をつく。

例えば、企業の広告に使われる地図。不動産屋が物件の地図を示すとき、○○駅下車としながら、実際に歩くよりもかなり近く感じるような地図を描く。歩いてみたら、意外に遠かったなんてこと、結構あるんじゃないか。

どこで聞いたか忘れたけど、地下鉄の路線図、改描があるって。おそらく、秋庭さんがそれっぽいことを書いて、読者が真に受けているんだと思う。

でも、改描かどうかは別として、地下鉄の路線図は嘘をついている。

例えば、東京メトロのホームページにあった路線図を見てみよう。

「network2.pdf」をダウンロード

よーく見て欲しい。都心部より郊外の方が駅間距離が短いと思わない?東西線の門前仲町から千葉方面は、どうしてこんなに駅間が短いのか。これは、サイトの画像だけじゃなくて、駅の切符売り場の上に掲げられた路線図も同じ。どんな意図があるか、よーく考えてみよう。

都営地下鉄のこんな路線図を見たことあるだろうか。

Subway おかしいよね、この路線図。大江戸線は、こんな風に丸くは走っていない。都営線を浮かび上がらせるために、他の路線がいびつに見える。この図もやはり、郊外の路線は、駅間距離が異様に短い。現実の路線図とは似ても似つかない。でも、使うお客さんが、これに文句を言うことはあまりなくて、当たり前のように使っている。

つまり、地図は嘘をつくし、それを使う人も、それを受け入れている。

メルカトル法で作られた世界地図を、よく小学校の社会科の時間で見た。経緯線がどこも直交しているから、高緯度地方がやたらと拡大されてしまう。例えば、現在のロシアなんて、とてつもなくデカくなる。オイラが小学生の頃は東西冷戦の時期で、社会主義国・ソ連がやたらとでっかく表現されてしまうことになった。こうして、メルカトル法が政治的に利用されることもあった。

最初に戻ろう。

だが、国土地理院の原図が誤っていると、当の地理院が認めることになった。地理院の地図が誤っているのは、私には一つの驚きだった。(P68)

オイラも、秋庭さんの本を読んで驚いた。いつも歩いている通路の壁の向こう側が丸ノ内線だったなんて、想像すらできなかったからだ。

だが、これは「誤差」というわけにはいかなかった。営団のデータが正しいにもかかわらず、コンピューターのやりとりで誤差を生じた結果、丸ノ内線のルートがぴったりと道路のカーブに合ったというのは、どう考えても話がうますぎる。(P69)

よーく考えてほしい。国土地理院が丸ノ内線のルートを誤って地図に落としたのは、いつのことだったのだろうか。丸ノ内線が通ったときか、千代田線が通ったときか。少なくとも、時代背景から言って、コンピューターのファイルのやりとりは存在しないと思う。人間が生の紙のデータをもとに、ここにルートを書き入れたのだと思う。この点は、国土地理院の広報担当が誤解している。

では、国際地学協会の主任は、どうだろうか。秋庭さんに問われ、「それは遺産ですな」と答えている。

これは、真実を述べた台詞だと思う。「遺産」とは、国土地理院が最初に丸ノ内線と千代田線の経路を書き加えるとき、間違ったルートを使った。この2路線が交差しているかいないかが問題になったのは、その真ん中に南北線が開通したからだ。それまでの間は、この間違いに気づくことができないし、気づく必要もなかった。地図の改訂のたびに、地図は前の「遺産」を引き継いだ。じゃあ、間違ったら書き直せばいいという話になるが、もともと地図は、航空写真を正確に反映したものではなく、正確に反映していなければならないわけでもないのだ。

オイラは、地図については専門外だが、いろいろと調べてみて、これは改描ではないと思っている。国土地理院の担当者の人為ミスである可能性が高い。

秋庭さんは、GHQの地図や戦前の地図などに、国民に隠された地下網を記してある、それが改描だと主張している。でも、改描というのは、そもそも、何かを見せるための手法ではなくて、何かを隠すための手法なのだ。

例えば、ここに浄水場がある。軍事上重要な施設だから、桑畑に書き換える。そこに浄水場があるかどうかは、その改描地図を見ても分からない。三浦半島には大きな軍港がある。だから、半島ごと消してしまう。その改描地図を見ても、三浦半島の存在すら分からない。

そう。分かっちゃいけないんだ。

もしも、一般に市販されている地図に、地下網を表す記号や印が隠されているとしたら、それは、改描とはまったく逆のことをやっていることになる。地下にあるものをわざわざ地図に表す必要なんてない。見えないんだから、無視すればいいのだ。例えば、もしもオイラが戦争中に地図を描く立場になって、「地下鉄の存在を消せ」と言われたら、地下鉄の出入り口や、地上部分を消してしまうだろう。でも、せっかく消した地下ルートをわざわざ目に見えて分かるように地上に記号を入れたりはしない。敵に地図が渡ったら、バレバレだからだ。例えば、存在しない地下ルートを書き入れて、敵を混乱させることは考えるかもしれない。

なので、当然、一般に市販されている改描地図以外に、軍の関係者だけが使う正確な地図が存在する。それがないと、困っちゃうでしょ。改描地図には、自分たちが守るべき拠点が書いていないんだから。地図には、つまり、2種類ある。偽物と本物。

秋庭さんは、「改描」の意味を根本的に誤解している。

でも、オイラは、秋庭さんが『帝都東京・隠された地下網の秘密』で指摘した、丸ノ内線と千代田線のルートの違い、しかも、間違っていたのは、国土地理院だったという事実は、大いに驚かされたし、大スクープだと思う。でも、それは、間違っていたというスクープであって、「改描」ではない。地図は嘘をつく。それが、戦後民主主義の日本において、民間企業ではなくて、国土地理院がやってしまったことは、いくら地下鉄のルートごときとはいえ、なかなか傑作だと思う。だからこそ、国際地学協会の主任は、「同じ言葉を繰り返し、微笑を浮かべた」のだ。

最後に、『地図は嘘つきである』から、「抜け目ない地図のための11の原則」というのを紹介しておこう。

1.選択は抜け目なくやれ・・・見せたくないものは出すな。

2.枠組みの戦略・・・好ましくないものを併記することは避けよ。

3.プラスのものは力説せよ・・・地図にとって都合のよいデータとテーマを選べ。

4.失敗に備えて、言い訳を用意しておけ・・・もっともらしい弁解が必要。

5.マイナスのものはできるだけ小さく・・・マイナスのものをすべて削除することができない場合は、少なくとも強調してしまわないように気をつける。

6.ディテールをごまかせ・・・結局、詳細な地図は技術的に正確な地図だということになっている。

7.紙で説得しろ・・・不都合な細部をカムフラージュするためには、極めて単純にするか、無関係なものを細々書き込む。

8.空中写真や歴史地図で気をそらそう。

9.概略化は創造的にやれ・・・細部の省略と強調は、ポイントを明確にさせるためにやること。

10.エレガントな魅力を付加させる。

11.失敗したときは、何であれ、賄賂を考えろ。

なかなか、おもしろいでしょ。これは著者のジョークのようなものだけれど、地図の本質をついていると思う。オイラたちは、こんな平和な社会だから、改描なんてのも縁遠くて、地図に意図がないと思いこんでいる。でも、地図は、そもそも、ありとあらゆる意図でいっぱいだ。地図を眺めていると、そんな意図が伝わってくるから、秋庭さんのように地下マニアには、地下道が隠されているように勘違いする人もいる。皆さんの地図には、どんな意図が隠されているのだろうか。ぜひ今夜は、自分の持っている地図を眺めて、そらめいていただきたい。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。

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2006年10月19日 (木)

逢う魔が時の渋谷スクランブル交差点で出会った老女の怪

今日は気分よく仕事を終え、外回り先から颯爽と家路についた。途中でお腹が空いたので、渋谷駅で降りて、餃子の王将でたらふく腹ごしらえをして、満ち足りた感じでスクランブル交差点を渡ったのだった。

前方から近づく、女子高生らしき姿。夏服のセーラー服、黒いハイソックス、長いストレートの黒髪…。

そして、

その顔は、どう見ても、60歳は軽く越えているであろう、老女!!!

女子高生が老けているわけではない。

老女が、女子高生のコスプレをしているのだ。

老女!!!!!

今日は、渋谷で婆さんのコスプレ大会でもあるんだろうか。

それとも、あーやって、若者の輪の中に入りたがっているのだろうか。

日はすでに暮れかけていた。

ハチ公前の大画面では、桜塚やっくんが唄っていた。

しかも、3画面同時。「がっかりだよー!」って。

こいつもか…。

渋谷は、怖い街やなー。

何でもありやなー。

今夜は、いつも以上に体を丁寧に洗い、珍しくすでに布団に潜っている。

今夜のことは、早く忘れよう。

おやすみなさい。

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眞鍋姉さん、「しけ」はさすがにないけど、オイラは、ケータイのメールで1文字ずらす癖があるよ。

いや、元々は、わざとやるわけじゃなかったんだよ。「今日は、とっても疲れたです」を、「今日はとっても疲れたでし」って。「お昼ご飯は、お肉でした」を、「お昼ご飯は、お肉ですた」とか。「中日ドラゴンズ、おめでとう」を、「中日ドラゴンズ、おめでたう」とか。

え?何の意味があるかって?

いや、かわいいやん(笑)

ちょっと気恥ずかしいねん。

さすがに、文末に「しけ」ってのは、意味がわからへんわー。

「時化」?…「湿気」?…「敷け」?…

そんなこんなで、眞鍋姉さんにトラックバック。

なんか、1文字だけ違っていると、結構、かわいくない?

いや、38歳の男子がかわいいとか、すっごいキモい。わかるねん。そりゃ、そうやねん。でもなー。今時の若い女子とつきあおうと思うと、ちょっとお茶目なところ、出したいやんかー。メールであれこれコミュニケーションとれるほど器用な世代やないんやけどな、せめて、お茶目っぽくメールは出したいやん。

え、やっぱ、キモい?

うん。わかるわー。それ、わかるわー。

なんか、健康のためと言われつつ青汁を飲んでも、罰ゲームにしか思えないような理不尽さを感じる。そんなん、いらんわーって感じ?

こび売りたくなるんやな。ちょっと天然ボケのふりして、かわいらしさを演出したくなんねん。

まあ、オイラ、演出するまでもなく、“天然”やけどね。

この年齢になると、むしろ、“痴呆”と思われる。

若年性?

いや、自虐的にならないうちに、今夜は寝ます。

おやしみ~。

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突然、思い立った。aikoメールに勝手に返信する。

aikoメールって、知っているだろうか。携帯サイト「Team aiko」に登録すると、aikoから直接メールが送られてくるというシステムだ。正確には、aikoのメールをそのまま受け取れるのは、ドコモのユーザーのみで、auのユーザーは、aikoからのメールが届いたよっていうお知らせだけが届く。オイラは、昨年までは、ドコモだったので、aikoメールを直接受け取っていたのだけど、auになってそれがなくなり、少々、ケータイ会社を変えたことを後悔してしまった。

で、このメール。例え、ドコモであっても、そのメールに直接返信することはできない。当たり前だよね。全部返信していたら、aikoがたまらんよね。何万通も返信されたら、ケータイのメモリが吹っ飛ぶもんな。

そこで、今日、急に、aikoメールに勝手に返信してしまおうと思いついたわけだ。いや、もちろん、メールで返信することはできないから、このブログで、というわけである。

本当は、aikoメールをまず引用してからにしたいが、著作権でもめたくないし、そもそも絵文字を多用するaikoのメールを引用することは、ほとんど不可能だ。

で、10月15日のメールへの返信である。

「とゆー事で、最近ドラマがまた始まったね。みんなは何見てんの?」

そーやねー。「Dr.コトー診療所」がいいなー。何年か前、毎週欠かさず見ていて、涙を流していたんや。何年か前に、小笠原諸島の父島に行ったことがあって、そこもやっぱり医師が足りなくて、苦労していた。漫画は大ファンの「のだめカンタービレ」が、月9で始まったね。上野樹里は大好きやねんけど、ちょっと演出が大袈裟かな。原作をよく知っているだけに、イメージを壊さないでほしいねん。大穴は、「役者魂!」かな。松たか子は、久しぶりの連ドラ登場だから、結構期待している。藤田まことは、オイラ、「必殺シリーズ」の大ファンやから、楽しみにしていたりする。

そんな感じやね。

ほなにー。

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2006年10月17日 (火)

突然、殺人自動ドアが閉まり、オイラのアイスコーヒーがひっくり返った昼休み

とにかく、今日は午前中からやけに日差しが強くて、ただでさえ寝不足気味のオイラは、すっかり体力を奪われていた。下北沢で仕事があって、昼前には駅に着いて、餃子の王将でチャーハンと餃子をむさぼり食った。その後、仕事までしばらく時間が空いたので、オイラは、駅前のコーヒーショップに入った。

アイスコーヒー、ミディアムサイズ。

店内を見回すと、ちらほらとテーブルが空いていたが、店の中庭がテラス席になっていて、穏やかな陽気で気持ちよさそうなので、そちらに向かった。

右手にカバン、左手に、お盆に載せたアイスコーヒー。

ボタンを押すとドアが開く、自動ドア。外から誰かが店内に入ってきて、ドアは開いた状態だった。オイラが、そのドアから外へ抜けようとした瞬間だった。

どんっ!!!

扉が急に閉まり、オイラの左腕に当たり、お盆の上のアイスコーヒーがお盆の上で派手にひっくり返った。

アイスコーヒーが、勢いよく、地面にばらまかれた。

そりゃー、もー、見事に…。

固まるオイラ。

テラス席のお客様の視線が、オイラに集中した。

な…なんじゃ…。

あまりにも見事にアイスコーヒーは、地面に世界地図をつくっていた。

不幸中の幸いは、誰にもコーヒーのしずくがかからなかったことである。

普通、自動ドアは、人が通り過ぎることがなければ、閉まらない。電車の駆け込み乗車じゃあるまいし、自動ドアに挟まれるなんて、今まで経験したことがない。その記念すべき人生初体験は、少し切ない結果をもたらした。

オイラは、空っぽのアイスコーヒーのグラスを持って、カウンターへと戻った。店員に、「こぼしちゃいました。急にドアが閉まったので…」と言うと、何食わぬ顔で、こぼしたアイスコーヒーの後かたづけをして、代わりのコーヒーを注いでくれた。

オイラは、もう一度、「急にドアが閉まったんです」と伝えたが、店員は「そうですか」と言って、キョトンとしていた。

アイスコーヒーを飲み干したあと、オイラは、自動ドアを確認してみた。

ボタンを押すとドアが開くタイプの自動ドア。人が近づいても、センサーがないから、ドアが開くことはない。逆に、人がいてもいなくても、ボタンさえ押せばドアは開くし、ボタンを押さなければ、勝手に閉まる。

危ないなー。

そういえば、何年か前に、六本木ヒルズで幼児が回転扉に挟まれて死亡した事件があったっけ。このドアは、大丈夫なのだろうか。アイスコーヒーのミディアムが、230円ぽっきり。それで命をかけては、割に合わない。オイラみたいな大人が死ぬことはないかもしれないが、もしも目の前に誰かが立っていたら、その人はアイスコーヒーまみれになっていたことだろう。誰が、クリーニング代出すんだ?

そんな、あまりにも痛すぎる昼休み。

皆さんも、お気を付けて。

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2006年10月16日 (月)

うーん。教師って、そんなにエラい人たちなのか?いじめをなくせるほど、スーパーマンなのか?

福岡県筑前町の公立中学校で、男子生徒がいじめを苦に自殺した事件。新聞っておもしろいもので、ここまで全マスコミが盛り上げてきておきながら、未だに、「いじめを苦に自殺したとみられる事件」なんて、仮定形で表現している。自信ないなら、こんなに盛り上げるなよって、思わずつっこむ。

いろんな情報が錯綜していて、どれが事実で、どれが憶測か分からない。とにかく、マスコミもマスメディアも、よってたかって、男子生徒の1年生時の担任を責めている。

オイラは、こういう事件を聞くと、ああ、またかと自然に受け止める。

少なくとも、オイラの小学校のときの担任は、いじめを止めるどころか、気づくこともなかったし、気づいていても逆に助長させるようなことばかりしていた。もしも、世の中に時効という概念がなかったら、今すぐ訴えてやってもいいくらい、オイラの担任は無茶苦茶だった。あの担任は、どうして捕まらないんだろう…なんて、子どもの頃、本気で思っていた。

小学校から中学校にかけて、オイラはよくいじめられたことがあるが、それにちゃんと対応して、オイラのSOSに反応した教師は、ほんの何人かしかいない。

とりわけ、小学校3、4年生の担任はひどくて、いじめられているオイラに向かって、「おばかさん」と罵ったり、嘲笑したり、そりゃー、やりたい放題だった。

オイラは、そんな経験をしているから、公立学校の教師なんて、最初から信用していなかったし、いじめられても、自分の力で何とかしようと思ったのだ。

親は親で、いじめられたりすると、「学校に抗議しろ」とか、「親にどなりこめ」とか大騒ぎするが、決してそんなことを実行に移すことなんてなく、「いじめられたお前が悪い」という結論に落ち着く。だから、親には決していじめられたという事実は告げられなかった。

とにかく、教師と親がしゃしゃり出ると、ろくなことがなかった。下手をすると、教師と親でつるんで、やはりお前が悪いという、おかしなオチがつく。

今回のニュースをあれこれ読むと、確かにひどいんだが、オイラも似たようなもんだった、相変わらず教育の世界は変わっていないなあと、そんなあきらめ感しか感じない。

オイラも、小学生のとき、死んでやろうと本気で思った。教え子が自殺したら、担任がどれだけショックだろうかと。死ねなかったのは、オイラの当時の家庭環境は、1人になる余裕すらなかったのだ。親と同じ部屋で寝起きし、親と同じ部屋で食事し、親と同じ部屋でテレビを観て…、しかも、家に帰れば、小学生だというのに、仕事を手伝わされる。こういうのを、生きるのも、死ぬのもできない世界というのだろうか。

おかげさまで、すっかりひねくれ者に育ってしまった。

オイラがいじめられていた時代から、もう30年近く過ぎてしまったが、あの頃から日本の教育環境は、何も変わっていないんだと思う。

同時に、おそらく、その当時、誰かをいじめていた人間が、何となく教員免許をとって、何となく教師になっているのかもしれない。

子どもの頃、一番苦しいときに頼るべき大人が、大人として機能してくれなかったことが、どれほど子どもを人間不信に陥れるか。例え、いじめを阻止できなくても、話を聞いてくれるだけでいい。ウンウンと頷いてくれるだけでもいい。いっしょに泣いてくれれば、なおいい。「ごめんね」と謝ってくれれば、「先生が謝る必要ない」と言うと思う。子どもの世界は、小さい。大人の世界より、はるかに狭い。逃げ場が少ない。せめて、心の逃げ場くらいになってほしい。

子どもの頃、他人をいじめた記憶を持つ人は、決して教師になってはならない。あの頃はバカだったと、いじめた相手がいないところで勝手に総括して、大人になったふりをしてはいけない。日本の教育が悪いと、社会のせいにするのは自由だが、現実に今いじめられている子どもにとっては、そんなことどうでもいい。どんな教育環境であれ、教師は教師として、目の前の子どもと戦ってほしい。それができないなら、教師なんてやめてくれ。

あ、なんか熱すぎる?(苦笑)

独り言なんで、あんまり気にしないで。

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2006年10月15日 (日)

新生四谷天窓がオープンして約1か月。ようやく初見参。usuのライブ、しかも、真っ昼間の巻

ほんの半年ほど前までは、週に1,2回通っていた四谷天窓と四谷天窓.comfortが、オイラがライブ通いをサボっているうちに、高田馬場に移転していた。

高田馬場だから、高田馬場天窓とか馬場天窓とか高田天窓とか新宿天窓とか神田川天窓とか早稲田天窓とか、名前を変えるのかと思いきや、やはり伝統のネーミングやしね、「四谷天窓」のままだった。皆さん、お気を付けて。

新たな天窓は、高田馬場駅の早稲田口を、山手線の西側に出て、信号を渡って、「さかえ通り」という看板をくぐり、商店街を歩く。松屋とかラーメン屋とかカレー屋とか回転寿司とか、食いしん坊にはたまらないお店の数々を、グッと我慢しながら歩くと、も1回、「さかえ通り」の看板をくぐる。そこで、左に曲がると、5階建ての「baba hatch」というビルがある。ここの3階が四谷天窓、5階が.comfortである。

さて、オイラの今日のお目当ては、このブログですっかるお馴染みのusu様。急遽入った昼間のライブである。

新しい.comfortは、四谷時代よりかなり広めに感じる。かなりお客さんが入っていた気がするけど、前よりか、スペースに余裕があった。ステージと客席との間は、前のように近かったけれど、ステージを奥に置く縦長ではなくて、ステージが背面にあって横長に客席がのびている。

usu曰く、

「皆さんの顔がよく見えて、安心しますね。でも、皆さんがいなかったら寂しいですけどね…」

てなことらしい。

以前の.comfortは、ステージ側から客席を眺めると、逆光になってお客さんの顔が見えないけれど、今度は真横から光が差し込んでいるから、お客さんの顔がよく見えるんだな、たぶん…。

夜はそうでもないかもしれないけど、昼間はステージ側からお客さんの表情が丸見えかもしれない。

鼻くそほじくってたりしたら、丸見えやね(ほじらないし(-_-;))

そんな平和な日曜日。

2週連続で仕事が入っていたから、久しぶりの静かな日曜日。ここんとこ、ライブの回数がめっきり減っていたので、随分リラックスした昼下がりだった。

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2006年10月13日 (金)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?29

さて、そろそろ、東京の地下の話も佳境に入ってきた。

『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)から。

後藤新平は十二路線の地下鉄を計画し、東京市と早川がほぼ全線を完成している。六路線を政府におさめ、東京市が五路線、早川が一路線を開業できるかと思われたものの、わずか一路線の半分という結果になった。おそらく五島慶太は、新宿線、渋谷線、連絡線、渋谷から二子玉川まで半蔵門線を完成し、一路線の半分を手にしていた。(P335)

さてさて、どうしたものか。あまりにも突然、東京市の6路線が整備されたことになっていて、さらに、それぞれ直線街路まで整備されちゃっている。その1つ1つに反論を試みることもできるかもしれないが、今ひとつ虚しさも感じるし、その一部分は今までも書いてきた通りである。ここでは、細かい部分は省き、大枠の話をしたいと思う。

まずは、直線街路のこと。何故、隠された地下鉄が、実際の申請ルート以外にも直線の街路があったのか、その根拠はほとんど書かれていない。あえて言えば、

「帝都復興」は下水改良という名の地下鉄、地下道をズタズタにする。それが反発の理由であったとすれば、新たにそれを建設すれば問題は解決する。おそらくこのとき後藤新平は下水改良の地下鉄を建設すると政府に確約している。(P323)

ここまでオイラのブログを追いかけてきてくれた人なら、この話の前提となっている下水改良地下鉄が存在しないのは、ご承知のことと思う。

「下水改良」地下鉄なるものはないって記事はここ。

そもそも「市区改正」は、地上の計画だったって記事はここ。

「市区改正」は、湯水のように金を使った事実はないって記事はここ。

関東大震災以前に、明治から大正にかけた「市区改正」で地下道か地下鉄が敷かれたという証拠は、ついに見つからなかったし、秋庭さんが挙げた証拠はすべて勘違いだったことが分かった。従って、帝都復興によりズタズタになる地下鉄など存在しない。

もう1つの直線街路の根拠は、これだろう。

品川と千住大橋を直線で結ぶ道路もない。(P319)

これも秋庭さんの早とちりであることは、以下の記事で述べた通り。

帝都復興の設計士が地下道の秘密を暴いているわけじゃないって記事

後藤新平が、帝都復興で反発を浴びていた理由は、他にある。

単純に、政敵が多すぎたからである。

直線街路がないことが分かったところで、残りの、申請にあった6路線が、実は国民に極秘につくられたのではないかという仮説である。

帝都復興計画における高速鉄道(地下鉄)ルートは、1915年3月、特別都市計画委員会で可決された路線網である。近郊の私鉄電車が乗り入れ、新興の交通ターミナルとなりつつあった池袋、新宿、渋谷、目黒と都心部を連絡する幹線道路を建設し、その下に地下鉄を通すというものだった。これは、東京の副都心形成と交通計画の原型となったものの、復興計画の縮小のため、事業の対象から除外された。

帝都復興計画は、帝都復興院での最初の予算の概算は、12億9500万円だった。国会に提出されたときには、5億7500万円となり、さらに国会で4億6800万円まで削減されてしまった。

最も大きな反発を受けたのは、区画整理事業である。今でさえ、区画整理は、都市整備の一般的な手法として定着しているが、当時の東京では、大々的な区画整理を行った経験はなかったため、人々の間では、“区画整理は地主の土地のタダ取り”という誤解があった。前の記事を読んでいただくと分かるが、市区改正では、すべての公共事業の用地は、買い取り方式だった。これだと、金がかかるだけでなく、立ち退きを受ける人と事業によって恩恵を受ける人との格差があり、将来に遺恨を残す。帝都復興では、このような教訓から、土地区画整理方式がとられた。

この土地区画整理に、もともと政敵の多かった後藤新平は、ここぞとばかりに攻撃を受けて、帝都復興の予算はどんどん削減された。後藤新平は、土地区画整理の事業主体を東京市に変更し、東京市の財政負担を増やすことで、区画整理を実施した。

東京市がそんな無理を引き受けるかというと、当時の東京市長は、後藤の腹心であり、後藤が市長時代の第一助役、永田秀次郎だったため、これを快く引き受けた。

こうして、帝都復興では、世界でまだ実例をみない既成市街地の1100万坪にも及ぶ広大な区域の土地区画整理を成功させた。街路計画も、河川・運河計画も、公園計画も、そもそも土地区画整理によって用地を生み出さなければ、そもそも実現することができない。このあと、昭和通り、大正通りという東西南北の二大幹線道路の他、蔵前橋通り、清澄通り、浅草通り、三ツ目通り、永代通りなど、多数の幹線道路が新設された。墨田、錦糸、浜町の三大公園と52の復興公園も新設された。

後藤新平の成果は、昭和通りだけというのは、大きな誤解である。彼は、確かに公職にあるうちに出した成果は多くはなかったが、彼が敷いた計画や方針は、彼の意志を受け継いだ多くの政治家や行政マンが、実現に導いた。

ところで、帝都復興計画では、地下鉄建設の予算が削られてしまったので、復興計画の予算4億6800万円の中には入っていない。では、東京市の予算だったかというと、上の事情を見ると、そんな財政的な余裕はなかったことが想像できる。むしろ、当時の東京市は、区画整理を行うので必死だった。ただ、当時の街路計画の一部が、その地下に地下鉄を通すことを想定していたことは、事実である。

が、いったい誰がつくったのか、誰の金を使ったのか、そういう基本的なことが分からない。

銀座線をつくった早川徳次には、そんな余裕がない。早川は、東京地下鉄道の会社設立直前に、4000万円の資本金すら集められず、やむなく資本金を1000万円にしている。このため、当初東京地下鉄道が着工する予定だった新橋・上野間の建設費が調達できず、後藤新平東京市長に株式の引き受けを要請したが、財政上の余裕がないと言われて断られ、次に考えた外資導入も関東大震災によって成立しなかった。結局、先に上野・浅草間の建設を決めた。

第一次世界大戦、関東大震災、世界恐慌…そんな世界も日本もひっくり返っているとき、果たして、国民に隠されて地下鉄網を敷くことができる機関・人物・媒体が、どこにあったというのだろうか。

秋庭俊さんは、明治以来、東京に、国民に隠された地下網が形成される根拠を、一貫して、普通に公開されている地図や計画図へと求める。そこに、設計士や政治家たちの発言を絡めて、地下網の仮説を立てる。が、その筋書きが、あまりにも無理がありすぎて、歴史を知らない人ならコロッと引っかかるかもしれないが、突き詰めれば突き詰めるほど、秋庭さんの仮説は、多くの反証にぶち当たることになる。秋庭さんの本は、いったい、どこが正しいのだろうか。それは、皆さんでもう一度、このブログを読み返して考えてみてほしい。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。

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2006年10月12日 (木)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?28

オイラの家から最寄りの駅までの道のりは、人通りはあまり多くないが、街路灯が道を照らしている。近くを甲州街道が通っているが、ここは国道20号で、昼夜を問わず、頻繁に大型車が行き来している。深夜にタクシーで甲州街道を通って帰宅するときには、いつもどこかで必ず道路の補修を行っている。深夜は、この工事渋滞に巻き込まれない日はほとんどない。

国及び宮内省の所有する街路にも固(もと)より建設修理点灯せねばならぬ。それを市民が負担する法はない。

上記は、大正時代、後藤新平東京市長に招かれたC・A・ビーアド博士(Dr.Charles A.Beard)の言葉である。秋庭俊さんが、あちこちの書籍で使っているので、ご存知の方も多いだろう。ビーアド博士は、1874年生まれ。来日当時49歳だった。秋庭さんは、「都市計画の権威」と説明しているが、ビーアド博士は、政治学が専門である。アメリカのコロンビア大学で、反戦的な3人の学者が追われる事件があり、ビーアド博士はこれに抗議して大学を去った。その後、ニューヨーク市政調査会の専務理事として、市政研究を指導した。

後藤新平は、ニューヨーク市政調査会を真似て、東京でも市政調査会を立ち上げようと、ビーアド博士を招いた。そのときに書いた著作が、『東京の行政と政治』である。この本は、昭和39年9月1日に『東京の行政と政治-東京市政論-』(東京都政調査会訳編)として復刊されている。皮肉なことに、この本は大正12年に刊行されたが、そのとき後藤新平はすでに東京市長の職を辞していた。

ビーアド博士が帰国後、帝都東京を関東大震災が襲う。後藤新平はビーアド博士に打電。それとすれ違うように、ビーアド博士も後藤新平に打電した。

Lay out new streets,forbid building within street lines,unity railway stations.

新しい街路を設定せよ。その路線内の建築を禁止せよ。鉄道駅を統一せよ。

ビーアド博士の『東京の行政と政治』をはじめ、様々な提言は、当時の多くの専門家からは反発を買っていた。が、後藤新平は、様々な局面でビーアド博士の提言を受け入れて、実際に形にしている。

さて、秋庭さんの登場である。『新説東京地下要塞』(講談社)からである。最初に紹介したビーアド博士の発言を引用して、次のように解説している。

 地上の道路は、国か地方自治体が管理している。「所有」しているわけではない。それは戦前も戦後も同様で、広く国民が利用できるからである。しかし、街路は国および宮内省が所有しているという。それは国民には街路が利用できないことを表している。「市民が負担する法はない」とあるのも、市民は街路が利用できない以上、建設費や維持費を負担させるのは筋が違うということである。
 つまり、街路は地上の道路ではない。「建設、修理、点灯」という言葉づかいからも、地下道のことだと想像がつくと思う。(P86)

最初に書いた通り、地上の道路でも、建設、修理、点灯しなければならない。いくら大正時代とはいえ、東京のど真ん中で街灯もない道路というのは、いかがなものだろうか。しかも、国や宮内省の管理する道路なら、真っ暗闇というわけにもいかないだろう。現代も同じである。

地上の道路も、所有権は、国であり、都道府県であり、区市町村である。場合によっては、個人の地主が所有する私道もある。国民が広く利用できるのは、地上にあるからではなくて、その所有権が国や地方公共団体だからである。私道の場合、所有者やもしくは、その場所に住む住民しか通行を認めないこともある。

「市民が負担する法はない」というのは、国や宮内省が道路を建設したり、修理したり、街路灯を設置するなら、国や宮内省が金を出せと言っているだけである。

当然のことながら、ビーアド博士はアメリカ人なので、英語しかしゃべれない。故に、「街路」というのは、日本人がそう訳しただけである。もともとは、おそらく、「streets」だったのではないか。上に挙げた電報の一文をご覧になれば分かると思う。

ビーアド博士は、『東京の行政と政治』の「第四章 都市財政の運営」で、次のような提言をしている。

第1に、中央政府は、首都に、また時としては、首都のほかの都市にも、たくさんの土地と建物を持っているのが普通である。道路が舗装され、水道給水幹線が敷設され、その他の都市改良事業が行われる場合には、中央政府は、一般市民と同じ原理に従って、負担金を全額支払うべきである。

第2に、国有の建造物への特別な道路をつくるために、道路が建設され、しかもそれが、私有地を横切るような場合には、中央政府が、その道路行政の経費の全額を負担すべきである。

第3に、首都の目的に沿うために、道路や街路の拡幅が行われる場合には、中央政府は、その事業に対する受益者負担金を支出するほかに、自己のためにさらに拡幅をしたような場合の経費の全額を負担すべきである。

第4に、政府の道路の舗装を行う場合には、中央政府は、上記の受益者負担金を支払うとともに、首都の必要を満たすための特別の拡幅の費用の全額を負担すべきである。

つまり、最初に紹介したビーアド博士の一文は、当時の中央政府に対して、首都としての都市整備を行おうとするなら、国としてちゃんと責任を果たせと提言しているのである。当時、後藤新平東京市長は、総額8億円にものぼる「東京市政要綱」を策定し、“後藤の大風呂敷”と揶揄されていたが、国はそれに応えようとせず、帝都東京の建設は一向に進まなかった。ビーアド博士の提言は、当時の中央政府に対する痛烈な一撃だった。

でも、当時の政府は、ビーアドの忠告を受け入れることはなかった。

関東大震災のあと、復興院総裁に就任した後藤新平は、ビーアド博士を再び招請する。ビーアド博士は、来日して、「東京復興に関する意見」を発表したが、その意見もほとんど聞き入れられなかったようだ。後藤新平の帝都復興計画は、どんどん縮小を余儀なくされ、当時の政府は近代都市東京を建設する劇的なチャンスを逃してしまう。それは、第2次世界大戦後の戦災復興の際も同じで、やはり東京は場当たり的な都市政策しか打ち出せず、東京の都心は今も相変わらず雑多としたままである。

太平洋戦争後、ビーアド博士は、「日本へ還ることができたらと思う」と漏らしたが、果たされることはなく、昭和23年に74歳で亡くなった。

ビーアド博士は、地下がどうとか、秘密の地下道がどうとか、そんな世界とは無縁な学者である。

秋庭さんの著作の特徴でもあるが、設計士や学者を勝手に、地下の秘密を暴露した英雄として扱うことが多い。おそらく、発言の言葉尻を捉えて、書かれている本人は思ってもいないような解釈を加えている。しかも、それが、国民に隠された地下鉄が存在する重大な証拠として提示されている。が、発言の原典を読めば、たいていは、そういった隠された地下網とは関係がないことが分かる。

世の中には、たくさんの情報があふれている。自分の見聞きした情報が正しいのかどうか、判断できるのは、自分しかいない。存在しない地下道があると思いこんで、地図を眺めて興奮していたりするくらいなら、自分の目で、自分の得た情報が正しいかどうか、検証すべきである。オイラは、オカルトに右往左往しながら自分の目を疑って生きていくのは、ごめんである。どうしたら、真実を判断する目を持つことができるのだろうか。それは、自分自身が試行錯誤しながら磨いていくことだろう。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。

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2006年10月11日 (水)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?27

“見てきたような顔をする”という言葉がある。新聞記者は、案外、これをやってしまいがちだ。例えば、役所が出したプレス資料を丸写しして、電話取材する。写真をもらって、記事を掲載する。すると、まるで見てきたかのような顔をした記事が出来上がる。その是非はともかくとして、ジャーナリストは、すべての現場を目にすることなどできないから、様々な伝聞をつなぎ合わせて、1つのストーリーを作る。

ありがちなのである。

秋庭俊さんも、マスコミ出身である。やはり、ありがちな記事を作る。

『帝都東京・地下の謎86』(洋泉社)からの引用。

末広町から神田へと向かう途中、銀座線の線路は二手に分かれ、万世橋へと向かうのが見える。戦時中、金属が不足して都電のレールがはがされていたが、この線路は最後まで残っていた。政府専用の地下鉄として使用されていたということだろう。(P48「18◆地下鉄万世橋駅はいまも使われているのではないか」)

このブログは、こういう基本的な話をご存知のマニアも読んでいらっしゃるだろうが、知らない人のために…。昭和5年1月1日、銀座線の上野・万世橋間1.7キロが開通する。万世橋と神田の間には、神田川が横切っており、この神田川の下を潜るトンネル工事が難航したため、神田川の手前で仮説の万世橋駅を設置した。昭和6年11月21日、万世橋・神田間0.5キロが開通。同日、万世橋駅は廃止され、駅の出入り口は通風口として利用されることになった。現在でも、秋葉原交差点角にある家電量販店の前に残っている。

仮設の万世橋駅は、末広町駅から万世橋駅に至る複線用のトンネルの片方(現在の神田から末広町へ向かう軌道)に仮乗降場を設け、末広町駅から万世橋駅までのもう片方(現在の末広町から神田へと向かう軌道)を単線で運転していた。末広町駅の神田側には、このとき片渡り線が設けられた。

なので、万世橋駅は、秋庭さんが言うように、二手に分かれた先にあるような駅ではない。現在、トンネルの当該箇所には、柱がないので、銀座線に乗っていると、だいたい分かると思う。「この線路は最後まで残っていた」とあるが、秋庭さんは、いったい何を見たのであろうか。

同じように、この本では、他にも、見てきたような顔をして、まったくの勘違いをしている箇所がある。オイラが、このシリーズの最初に書いた以下の記事を参照してもらいたい。

東京の地下鉄は戦前からすでに作られていたという噂は本当か?

↑ありもしない東大前の地下通路の話である。

秋庭さんは、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)の文庫版あとがきで、こんなことを書いている。

この本が出版されたことで、こうした情報や資料が集まるようになり、私は次第に地下の専門記者、専門作家として認められるようになったのだと思う。(P412)

おそらく、秋庭さんのもとには、無数の地下ネタ情報が集まっているのだろう。こういう本がそれなりにヒットしたのだから、それも分からないでもない。そのネタをもとに本を書くのも、仕方ないことだと思うし、信憑性の善し悪しはあっても、個人の自由だ。

が、秋庭さんの本を読んでも、うーんと首を傾げてしまうのは、

この人、ウラをとらない、ってことだ。

要は、地下ネタの垂れ流しなのである。

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か12

↑ここでも、ウラはまったくとらず、営団の社員と名乗る男の話を鵜呑みにしている。

次も、『帝都東京・隠された地下網の秘密』である。銀座線神田駅のことである。

かつてこの駅の「B1」にも線路が敷かれていた。おそらく特殊な二段重ねで、その線路は神田駅で分岐していた。本線は三越前駅へと向かい、支線は東京駅へとつながっていた。「B1」の線路を支えるためにこの地下通路があり、そのために利用者はいまも「B1」には上がれない。以前、この「B1」を利用していたのはおそらく軍事政権だった。(P256)

さらに、『帝都東京・地下の謎86』から。

この駅のホームは地下二階にあるが、利用客は地下一階には行かれないようだ。ここにも大がかりな仕掛けがあるらしい。(P50「19◆疑惑の地下鉄神田駅」)

戦前に銀座線を作った東京地下鉄道が作成した『東京地下鉄道史(乾)』に、神田駅の2階に何があるか書いてある。復刻版が昭和58年9月に、『大正期鐵道史資料第2集(8)・東京地下鉄道史(乾)』(日本経済評論社)として刊行されている。

それによると、「神田駅は隧道土被厚の関係上、二階部として相当広い面積が利用されることになったので、これを変電所に利用することができた」とあった。

つまり、神田駅のB1は変電所である。

これも、書籍を読めば分かることではあるが、実際に地下鉄の神田駅を歩いてみると、B1部分に線路を敷く余裕などあり得ないことに気づくだろう。

さて、ここから先は余談である。

神田駅から末広町に向かう途中、アーチ型のトンネルがあるのが分かる。ちょうどこの辺が神田川が横切る真下ということになる。この部分の隧道を構築したのは、当時の東京市である。帝都復興計画で、神田川にかかる万世橋の橋梁を架け替えを行うことになり、東京地下鉄道は、この部分の建設を東京市に委託した。市では、架橋に先立って、まず川底に隧道を構築し、その上で万世橋を架けるという工法をとった。

このアーチ型トンネルは真ん中に柱がない。この部分にはかつて、X字の渡り線が設けられ、神田駅折り返し用の渡り線として利用されていた。昭和7年4月29日に、銀座線は神田から三越前まで延伸しており、この際に渡り線は撤去された。

末広町駅の神田駅よりにも、かつて、万世橋駅からの単線運転を行うための渡り線があったが、その後撤去されている。終戦後の昭和27年1月1日から、渋谷・末広町間の折り返し運転が始まっており、この際に再度設けられ、利用されたものと思われる。末広町折り返しの電車は、昭和31年10月1日に上野駅まで延長された。営団の資料によると、この渡り線は、昭和53年12月10日まで使用され、同54年3月1日に再び撤去された模様である。

たかだが、渡り線でも、いろいろな歴史があるのだね。

残念ながら、銀座線の歴史を振り返っても、二手に分かれた先にある万世橋駅なんて登場しない。そこにトンネルがなければ、その先にある政府専用の地下鉄も存在しない。神田駅の地下1階に構造物があれば、そこに線路など敷けない。

秋庭さんは、どうして、ネタのウラをとろうとしないのだろうか。テレビ局勤めの際に、そういう教育をされなかっただろうか。ジャーナリストの一番大切な仕事は、真実と嘘の境目を区別することだと思う。自分の見聞きした事実を垂れ流してしまったら、どこやらの巨大掲示板とレベルが変わらない。秋庭さんは、どうして見てきたような顔をして、ガセネタまで真に受けて垂れ流してしまうのだろうか。そこは、秋庭さんに聞いていただきたい。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。

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東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?

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『新説東京地下要塞-隠された巨大地下ネットワークの真実-』を読む

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『写真と地図で読む!帝都東京・地下の秘密』(洋泉社MOOK)を読んでみた。

『大東京の地下99の謎』(秋庭俊著、二見文庫)を読む

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2006年10月10日 (火)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?26

秋庭さんに騙されるところだった…、そんな人は多いのではないか。

最初は、『写真と地図で読む!帝都東京・地下の秘密』(洋泉社)からである。

東京駅や有楽町周辺で丸ノ内線は「162.716」という半端な値のカーブを曲がっていたが、ここ赤坂見附でも「182.881」という半端な値のカーブを曲がる。いや、単位をメートルではなくヤードにすると、この数字は半端な値などではなくなる。ぴったり200ヤードに相当するのだ。(P92)

戦前に使われていたヤード・ポンド法が、戦後に作られたはずの丸ノ内線で使われている。つまり、丸ノ内線は、戦前に作られたという結論。182メートル88センチ1ミリは、確かに200ヤードである。なるほど。

ところで、162メートル71センチ6ミリは、何ヤードだろうか。

秋庭さんのトリック。まるで、すべてがヤード・ポンド法で計算されているかのような印象操作がされているが、実は、200ヤードきっかりになる部分が、赤坂見附のカーブ以外にはない。いや、200と言わなくても、ヤードでちゃんと割り切れるカーブがない。つまり、秋庭さんの仮説をひっくり返すと、丸ノ内線の赤坂見附にある200ヤードのカーブ以外は、戦後に作られたトンネルであるということになる。

さて、元祖バイブル『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)である。

この赤坂見附の200ヤードのトンネルは地下鉄のために建設されている。このトンネルをもって本書の仮説の第一歩のデータということにしたい。

「戦前には、銀座線以外の地下鉄はなかった。地下道のようなものもまったくなかった」

東京の地下については、六十年にわたってこのように言われていたが、「二〇〇ヤード」はそれにクサビを打ち込んだことにならないだろうか。(P208-209)

自信満々である。おそらく、同書の中で秋庭さんが確信を持って証拠を提示した唯一のものと言える。

カーブに小数点がついていたのは、丸ノ内線と半蔵門線とそれぞれ六か所、東西線が四か所、千代田線と有楽町線に一か所ずつだった。ほかに有楽町線と千代田線を結ぶ8・9号線連絡線にも小数点がついていた。(P258)

ここで、秋庭さんの仮説は、丸ノ内線だけでなく、東京のあちこちの地下鉄は、戦前に作られたという仮説へと転化する。

中川によると、戦前、わが国の建築界では、マイルもヤードも、全部フィートで表してしまう習慣があったという。(P259-260)

と、突然、計算の単位が、ヤードからフィートへと変わってしまう。東西線の九段下-竹橋-大手町にある「203.30」という半径を、667フィートという数字になおした。それでも秋庭さんは、

しかし、このようなカーブが二つ三つ続いていたとしても、線路の半径はその後、メートル法に戻っていた。このままではいくつかのトンネルが戦前からあったと証明はできても、戦前から地下鉄があったと言うには、いま一つ物足りない。(P260)

と、自分の仮説の不十分さに気づいている。

なんと、このあと秋庭さんは、すべてのトンネルが戦前からあったと証明するために、ひたすらトンネルの壁や柱の形状や色を調べる。残念ながら、トンネルの壁や形状をいくら調べても、それが戦前からあったと証明することはできない。壁と柱を調べて戦前か戦後を判断できるのであれば、ヤードとかフィートとか言っていないで、最初からそうすれば良かったのである。形状や色で何かが分かるという思いこみ自体が妄想である。従って、この本で分かったのは、戦後に作られたトンネルの一部に、ヤードやフィートで計算されたと思われるカーブがあるということだけである。

本題は、ここから。

フィートの話は、飛躍が過ぎている。それまで散々ヤードを基準にしていたのに、突然、「中川」なる人物を登場させて、フィートを使うことを「習慣」だと断定している。が、それなら丸ノ内線のカーブがヤードを使っているのは、何故なのか。しかも、東西線の半径は、500フィートとか600フィートではなく、667フィートという、半端な値である。ここでも、2カ所のカーブをフィートになおしているだけで、他のカーブはフィートになおしていない。最初に挙げた丸ノ内線のトリックと同じ。フィートになおせるカーブは、2カ所しかなかったということになる。

しかも、そのフィートも値が中途半端で、今ひとつ信憑性に欠ける。

それでは、最初に戻ろう。

丸ノ内線の赤坂見附にある200ヤードのトンネルは、戦前からあったのか?

よーく考えてみてほしい。

設計士が戦前の寸法でトンネルを設計したからといって、そのトンネルが戦前からあったという証拠にはならない。だって、それって、設計士が戦前に設計しただけのことだから。極端な話をすれば、戦前にヤードを使って設計した地下鉄を、これから作っても構わない。実際に作るときは、メートル法になおしてしまうから、トンネルをつくる技術者や土木作業員には、原典がヤードかメートルかは関係ないのだ。

営団は、昭和17年に新線建設計画の検討に入り、新宿・池袋間を緊急施行路線として決定。第1期として新宿・東京間、第2期として池袋・東京間を選定した。今の丸ノ内線の前身である。

第1期計画のうち、最初に工事が着工されたのは、赤坂見附・四谷見附間1.3キロ。ここには、当然、200ヤードのカーブがある。

工事が始まったのであれば、トンネルの設計は終わっている。この工事は、戦局の悪化に伴い、着工から2年後の昭和19年6月に、政府の命令により工事中止となった。

戦後、最初に建設が始まったのは、丸ノ内線である。戦前の設計は、戦後へと受け継がれた。それが、赤坂見附にある200ヤードのカーブである。

さて、秋庭さんは、仮説の第一歩でつまずいている。つまずいているにも関わらず、秋庭さんは、地下鉄のトンネルの壁をすべてチェックして、次の仮説へと進んでしまった。つまり、ここ以降の仮説は、完全に破綻していると思っていいと思う。秋庭さんは、カーブをフィートで計算したときに、自分の仮説の不十分さに気づいていた。本来は、そこで立ち止まるべきだったのではないか。この本が、ノンフィクションになるか、オカルト本になるかの分岐点は、ここにあったのだと思う。どうして、つまずいた時点で立ち止まらなかったのだろうか。そこはぜひ、秋庭さん本人に聞いていただきたい。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。


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2006年10月 9日 (月)

怒り

本当は、今夜は、久しぶりに地下ネタで行こうと思ったが、急遽、ニュースが入ってきたので…。

こんな近くで、核兵器が炸裂したのは、戦後初めてなんじゃないだろうか。現在の時点で核実験が本当に行われていたのかどうか最終的な確認はされていないが、自分でやったと自白しているのだから、間違いないのだろう。

まず、心配なのは、地下核実験による放射能の影響。韓国はもちろんだけれど、日本も、すぐお隣の国として、安閑とはしていられない。上空の空気はどっちに流れているんだろうか。

それと、北朝鮮の実験がどういう風に行われたのか知らないが、あの国のことだから、陰惨な人体実験やら、近くの村の住民を放置したまま爆発させたりとか、実験の後に軍の部隊を訓練させているとか、無茶苦茶な対応をしているような気がする。また、罪のない人たちが被爆しているんじゃないか。

日本人以外は、案外、核の怖さを知らない人が多い。いや、日本人だって、被爆者の数が減るにつれて、原爆の被害がどれだけ凄まじかったのか、知らない人が多くなってきた。

オイラは、ブログを使って政治的な主張をすることは、めったにない。ブログは、そういうツールではないと思っているからだ。

でも、キノコ雲に関わることだけは、黙っていられない。

放射線、熱線、爆風、そしてその相乗作用が現世(げんせ)の地獄を作り出してから61年――悪魔に魅入られ核兵器の奴隷と化した国の数はいや増し、人類は今、全(すべ)ての国が奴隷となるか、全(すべ)ての国が自由となるかの岐路に立たされています。それはまた、都市が、その中でも特に罪のない子どもたちが、核兵器の攻撃目標であり続けて良いのか、と問うことでもあります。

一点の曇りもなく答は明らかです。世界を核兵器から解放する道筋も、これまでの61年間が明確に示しています。

被爆者たちは、死を選んだとしても誰(だれ)も非難できない地獄から、生と未来に向かっての歩みを始めました。心身を苛(さいな)む傷病苦を乗り越えて自らの体験を語り続け、あらゆる差別や誹謗(ひぼう)・中傷を撥(は)ね返して「他(ほか)の誰(だれ)にもこんな思いをさせてはならない」と訴え続けてきたのです。その声は、心ある世界の市民に広がり力強い大合唱になりつつあります。

2006年8月6日 広島平和宣言

「人間は、いったい何をしているのか」
 被爆から61年目を迎えた今、ここ長崎では怒りといらだちの声が渦巻いています。
 1945年8月9日11時2分、長崎は一発の原子爆弾で壊滅し、一瞬にして、7万4千人の人々が亡くなり、7万5千人が傷つきました。人々は、強烈な熱線に焼かれ、凄まじい爆風で吹き飛ばされ、恐るべき放射線を身体に浴び、現在も多くの被爆者が後障害に苦しんでいます。生活や夢を奪われた方々の無念の叫びを、忘れることはできません。
 しかし、未だに世界には、人類を滅亡させる約3万発もの核兵器が存在しています。
 10年前、国際司法裁判所は、核兵器による威嚇と使用は一般的に国際法に違反するとして、国際社会に核廃絶の努力を強く促しました。
 6年前、国連において、核保有国は核の拡散を防ぐだけではなく、核兵器そのものの廃絶を明確に約束しました。
 核兵器は、無差別に多数の人間を殺りくする兵器であり、その廃絶は人間が絶対に実現すべき課題です。

2006年8月9日 長崎平和宣言

地球の空にキノコ雲はいらない。

そらめく.comは、キノコ雲のない平和な空を目指します。

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2006年10月 7日 (土)

あんなに欲しかった、ミ・ミ・ズ♪

あんなに欲しかった、ミ・ミ・ズ♪

そんなわけで、その昔、オイラが子どもだった頃、オイラたち悪ガキは、小学校の校舎裏なんかで、土をいじくり、ミミズ探しなんてのに興じていたっけ。

ミミズ探しは、執拗なまでミミズを追いつめる。ある日、穴を掘ってミミズを見つけたものの、ミミズは間一髪、オイラたちの魔の手から逃れたんだ。仲間たちの一人がそれに激高し、じょうろを持ってきて、その穴に向けて、なみなみと水を注いだのだ。

出てこ〜い\(゜□゜)/

聞こえやしないだろうが、そこは子どもである。ミミズの水攻めに大いに盛り上がった。

が。

オイラたちが、水が引いた穴ぼこに手を突っ込もうとした瞬間…。

穴の奥から、もぞもぞと、何かが現れた。

無数の足、足、足。

奴は、ムカデだ。

ぎゃーっ!!!

オイラたちは、一目散に逃げた。全速力で、教室まで走った。

そんな、まだ校庭が土だった頃の話。

今夜は、相模大野のカフェレストラン・ラシェットにて、usuとみっちゃんの、ほんわかライブ。

ラシェットには大きなグランドピアノがある。いつもは店の片隅にあるピアノが、今夜はなぜか中央に陣取り、オイラが座った席の真横にあった。ピアノの生の音が直接届く感じ。優しくて、気持ち良い。

今夜は、2人にしては珍しく、パーカッションやギターのサポートが入る。で、例によって、ミミズのうた。

あんなに欲しかった、ミ・ミ・ズ♪

みっちゃんが、「このライブは、家族みたいな場所ですから」と言ってらしたけれど、オイラは、このカフェレストランは、かなりのお気に入り。最近、ここのライブが減ってしまったけど、何だか、店に入るとき、「ただいま」と言いたくなる。

何だか、いろいろな思い出が詰まった場所なのだ。

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相模大野ラシェットを訪れる

相模大野ラシェットを訪れる

テーブルには、usu手作りのこんなネームプレートらしきものが並び、さながらホームパーティ気分。例によって、食事は美味しいし。

後ほど続報を。

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2006年10月 5日 (木)

ただいま

ただいま

東京駅に降り立つと、全身からおもりを投げおろしたように、身体が軽くなった。

オイラは、この街が好きだ。人も好きだ。

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突然ですが名古屋に来ています(*u_u)

突然ですが名古屋に来ています(*u_u)

いろいろあって、日帰り帰省中。これからのぞみで、東京に帰る。

ってか、すごい田舎で、新生銀行のキャッシュカードが使えるATMを探していたら、あっと言う間に日が暮れた。

頑張れ、新生銀行(#`ε´#)

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2006年10月 2日 (月)

眞鍋姉さん、絶好調だねえ。オイラは、蟻のように働いているよ(泣)

日曜日は出勤やったしね。仕事終わって、家に帰ったら夜10時過ぎ。そして、今日も残業。とても忙しい。眞鍋姉さんといっしょで、毎日仕事場と自宅の往復、帰るとバタンと眠りにつく。ご飯は外で済ませるし、友達と遊ぶ時間もあまりない。でも、まあ、今月から京都まで往復したから、まだマシかなあ。

なわけで、今夜も眞鍋姉さんにトラックバック。

9月は、ライブの参戦が、たった2つ。今まで最大で、月に10以上のライブを、時には同じ日にハシゴまでして観に行ったものだけれど、最近、時間のやりくりがつかなくて、手帳に記されたライブの日程は、ほとんど×印。

ストレスたまるよねー。

今月は、たくさんライブ日程を入れているので、せめて8割くらいは攻め落としたいと思う、月の初めなのである。

眞鍋姉さんみたいな人でも、意外に時間が空いていたりすることがあるんだね。

番組の改編期だから、オフもあるのかなあ。姉さん、春くらいから、レギュラーいっぱい抱えていたしね。

そう言えば、なんやかんやいうて、今年もあと3か月。来月にもなれば、街にはクリスマスソングも鳴り響く。昨年のクリスマスは、和民で盛り上がっていたよねえ。今年はぜひ、もう少しロマンチックで、女の子っぽくて、素敵な夜であってもらいたいなあ。

まさか、3年連続で、被り物で飲み会なんて、オチはいらないからねー(笑)

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