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2006年9月の26件の記事

2006年9月30日 (土)

「したまるこ」ではない(Θ_Θ)

「したまるこ」ではない(Θ_Θ)

まあ、見方によっては、「ちびまる子」に似ていないこともない。

久しぶりのkazuyo様のライブで下丸子へ。naomile様がkazuyo様をライブに誘ったとき、「したまるこって知ってる?」と宣ったそうだ。っていうか、kazuyo様の地元やし。

でも、大丈夫。オイラは、すぐ近くの「矢口渡」を、「やぎりのわたし」と読み、一瞬、細川たかしを思い出していた。

明日は休日出勤である(>_<)

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2006年9月29日 (金)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?25

秋庭俊さんが、あちこちの書籍で、金科玉条のごとく、バイブルとしている書籍がある。

『近代日本建築学発達史』(日本建築学会編、丸善株式会社)

である。

この本は、とてつもなく太い。読むのはかなり大変で、日本建築学会とだけあって、建築の話が中心となり、都市計画については少ない。秋庭さんがどうしてこの書籍を選んだのかは分からないが、明治から昭和に至る都市計画の歴史を簡潔に教えてくれるからではないかと推測する。関東大震災前後に帝都復興に携わった建築家が執筆に携わってるだけに、当時の臨場感が伝わってくる。

ただ、まず事前に理解しておくことがある。かなり重要なことである。

『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)から。

言いたいことが言えない時代にこれだけのことを語ろうとすれば、相当の覚悟が必要とされる。おそらく「地下」という言葉さえ使えない状況のなか、設計士はその地下道の位置を特定している。「復興街路」の設計士の言葉となれば、信頼度は相当に高い。当局がこれに気づいたとき、どのようなことになるのか、設計士が考えていないとは思えなかった。命を削るような覚悟をしたうえで、設計士は後世に真実を伝えている。(P321)

秋庭さんは、大切なことを誤解している。この『近代日本建築学発達史』は、戦後に書かれた書物である。発行は、昭和47年10月20日である。従って、この書物を書いた「設計士」は、「相当の覚悟」も必要ないし、「地下」という言葉は使えるし、「命を削るような覚悟」もする必要はない。この書籍の帝都復興の項は、大阪工業大学の玉置豊次郎教授が執筆している。玉置教授は、大正12年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、関東大震災後に帝都復興院復興局技師として働いた。1956年から大阪工業大学の教授に就任し、在任中に『発達史』の編集に携わった。1984年に亡くなっている。

秋庭さんは、この書物を引用して、「設計士」が、ここで品川から千住大橋に至る直線の地下街路の存在を暴露していると書いている。では、『発達史』のその部分を全文引用してみよう。太文字部分は、秋庭さんが引用している部分である。

これら街路計画作成にあたって多くの街路中でも特に基幹となるものの位置がまず決定されることになって、第一に東海道と日光街道を一直線に南北に通し、次いで甲州街道と青梅街道を合わせたものと千葉街道を一直線に東西に通すことになった。すなわち前者は品川から千住大橋に通ぜしめ、後者は九段下から錦糸町に至らしめた。その沿道として前者では新橋から北はまったくの新設であって、銀座・日本橋通・御成街道に平行して、将来これらに代わって重要幹線たらしめようとしたものである。後者では万世橋から両国橋の間の旧電車道を100メートルあまり南に移動させることになった。これは万世橋付近が従来急カーブであって交通の難所であったことと、神田川の両岸を有効に利用するために旧の電車道と神田川間の敷地が狭小であったのを広めるためでもあった。

さて、秘密の地下道は見つかっただろうか。

秋庭さんは、この一部分を引用して、こんな風に書いている。

東海道と日光街道を一直線にとおしたような道路はなかった。(略)九段下と錦糸町を一直線にのぞむような道路などもなかった。(P318)

ここに書かれていることは、帝都復興の街路を立案する際に、品川と千住大橋を結ぶ南北の路線と、錦糸町と九段下を結ぶ東西の路線を、基幹道路として位置づけたということである。東京の地形は、山あり谷ありである。実際に線を引くときには、一直線にはならないのは、当然のことである。

「帝都復興」の幹線1号・昭和通りを、設計士は「沿道」としている。(P320)

秋庭さんは、日本語の勉強をしたほうがいい。筆者は、幹線街路1号・昭和通りが建設されるルートの「沿道」には何があるのかを説明している。新橋から北はまったく新設の道路で、既存の道路を拡幅するわけではないということ、その新設される道路は、銀座・日本橋通・御成街道に平行していて、将来はそれらの通りに代わって重要幹線になると説明しているのである。日本語が分かれば、読解できるよね。

さて、『発達史』は、上で引用した文章から90行後に、次の文章が登場する。90行も離れているから、話題はもう「沿道」とは何の関係もにないことに留意してもらいたい。ページ数では、3ページも後になる。

幹線街路第1号は後に昭和通りという通称が用いられることになったが、街路の一部が竣工をみた時に付近の人達の間から、むちゃくちゃに広過ぎる道路を造ったので界隈がすっかりさびれたと猛烈な非難があがった。事実現場に臨むと、両側には平家がせいぜい2階建の木造が建っているので、誰が見てもまことに索漠たるものであって、住民の非難を肯定せざるを得なかった。そのために東京市は新橋から三原橋までのごくわずかの区間であったが市電を新設して非難に答えざるを得なかった。かくのごとく復興計画は当時の事情と照らすと確かに理想の勝ち過ぎたものであったことは事実である。

さて、秘密の地下道は見つかっただろうか。

上で登場した「沿道」の話は、さっきのところで終わっている。ここは90行も読み進めた先にあるので、沿道とは別の話である。秋庭さんは、ほんの一部を引用して、こんなことを書いている。

街路の一部が道路になるということなのか、それとも、街路と昭和通りが重なっている場所があるということなのか。(P321)

秋庭さんが、何に悩んでいるのか謎である。昭和通りがあまりにも広すぎたので、周辺の住民から、地域が衰退したと苦情が出た。そこで、東京市が昭和通りの真ん中に、三原橋から新橋にかけて、市電を通した。こういう話である。重なるとかなんとかと、何を悩んでいるのか、意味不明である。

さて、ここで、『新説東京地下要塞』(講談社)を思い出してもらいたい。

新橋-三原橋間には、結局、市電の線路は敷かれず、戦後もこの区間には都電は走っていなかった。(P134)

秋庭さんは、嘘をついている。

自分が『帝都東京・隠された地下網の秘密』で引用した箇所のすぐ真下にある文章を読んでいれば、上のように、新橋・三原橋間に市電の線路が敷かれなかったという結論にはらなかったはずである。秋庭さんが『発達史』から引用した部分は、帝都復興のときに隠された地下網が建設されたことを示す重要な証拠とされている。しかも、秋庭さんは、この文章の執筆者が命がけで書いているとまで評している。だとすれば、引用部分の真下にある新橋・三原橋間の市電の話も、信用しなければおかしいではないか。

同時に、『新説東京地下要塞』では、都営浅草線が戦前にすでに作られていたという最大の論拠が、GHQの地図にある新橋・三原橋間の軌道だから、この部分の論拠が崩れてしまうと、都営浅草線が戦前に作られたという仮説も崩れる。

秋庭さんは、自分の仮説を立証するために、読者に対して重大な事実を隠蔽したまま、仮説をねつ造している可能性がある。

『発達史』は、オイラが前回と前々回取り上げた市区改正についての記述もある。

24年度から始められた臨時事業である水道改良事業のため募集された公債の償還金が30万円以上50万円以内という経費制限のわく内から支出され、加えて、物価や賃金の値上がり、日清戦争による財政緊縮などにより毎年度道路改正に使える金はわずかなものとなっていた…

やはり、「市区改正が湯水のように予算を使って、道路1本敷かなかった」という秋庭さんの仮説は、ここで崩れている。秋庭さんは、ここも読んでいるはずである。それは、確信が持てる。

何故か?

この文章が書いてある箇所の1ページ前に、秋庭さんが、「海の中を通る道路計画」として自分の書籍で紹介している地図が掲載されているからだ。

つまり、秋庭さんは、自分の仮説が間違っていることに、執筆の段階で気づいていた可能性が極めて高い。

秋庭さんは、“天然”なのか、“確信犯”なのか、オイラはずっとそこが分からずにいたのだが、ここまで来て、1つの結論に達した。秋庭さんの書籍に間違いや誤解が多数見られるのは、決して秋庭さんが無知だからではない。

彼は、確信犯である。

では、秋庭さんは、どうして、こうやって調べれば分かるような嘘をついてしまったのだろうか。そこはぜひ、本人に聞いていただきたい。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。


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『新説東京地下要塞-隠された巨大地下ネットワークの真実-』を読む

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『写真と地図で読む!帝都東京・地下の秘密』(洋泉社MOOK)を読んでみた。

『大東京の地下99の謎』(秋庭俊著、二見文庫)を読む

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2006年9月28日 (木)

『写真と地図で読む!帝都東京・地下の秘密』(洋泉社MOOK)を読んでみた。

結論から言うと、

ま、この程度の妄想なら、許す(笑)

構成は、「Part1 東京駅周辺には一大地下網があった」「Part2 徹底解剖!東京駅」「Part3 5つの疑惑から浮かび上がるもう1つの東京」の3部からなる。

目次のPart3のところには、何故か、「秋庭俊(談)」とある。(談)って、なんじゃ?

これまでの同種の本と違うのは、秋庭さんとは別に編集者がいて、執筆者は、秋庭さんの他に、4人もいる。で、どうやら、秋庭さんは、Part3だけを書いているらしい。上の(談)というので伺えるのだが、書いている内容や文章の癖で、秋庭さんとそれ以外の人との差が激しすぎるのだ。

Part1~2が、Part3と決定的に違うのは、ちゃんと裏トリをしている点である。Part1の赤レンガ地下通路や東京駅自由通路の話題では、分からないことをJR東日本に取材している。秋庭さんの真似事をして、あれやこれやと想像をしてはいるが、深追いはしない。秋庭さんなら、自分の立てた仮説を事実と混同して、次の仮説を立ててしまうが、彼らは事実をもとに想像を巡らせてみるが、あくまで仮説、あるいは疑問の域を出ない。

地下通路では、わざわざ自分の足で歩いている。歩いた結果は、深追いしない。おかしい、変だと、疑問を呈してはいるが、妄想の一歩手前で踏みとどまる。

Part2では、松本清張の『点と線』のエピソードや、『眼の壁』と、一般には知られていない秘密通路との関係なんかも出てきて、これはこれで読み応えがある。ここでも、軍部が隠したとか、GHQの仕業だとかという妄想は登場せず、普通に読める内容である。

史実を解説しているだけなので、オカルト本を期待している人間にはモノ足らないだろう。でも、ジャーナリズムとしては、許容範囲なのだと思う。

そして、Part3で、秋庭さんの登場である。

急に、文章に「私」が登場する。曲がりなりにも事実をもとに書いていたPart1~2とは一変して、妄想の連続が始まる。

例えば、

通常、地下鉄は地上駅のような重い建築の下は避けるものだ。なぜなら、その重量を支えてトンネルを掘るのもたいへんなら、工事終了後、そのトンネルが駅の重量を支えなければならず、潰れたら大惨事になるからである。

とある。

JR有楽町駅の地下を横須賀線が通過していることから、上のように妄想する。

でも、名古屋市営地下鉄の桜通線·名古屋駅は、JR名古屋駅の真下、あのツインタワーの真下にある。京都市営地下鉄の南北線·京都駅は、JR京都駅の真下、あの巨大な駅ビルの真下にある。札幌市営地下鉄の南北線·さっぽろ駅は、JR札幌駅の真下、駅ビルの真下にある。同東西線は、テレビ塔の真下を通っている。東京に限らず、全国の地下鉄は、道路を外れて、ビルなどの建物の下を通っている。

こんなことも書いている。

1964(昭和39)年の東京オリンピック開催前までは、銀座でも数寄屋橋でも好き勝手に路上駐車することができたという。

そりゃ、そうだ。好き勝手というか、駐車場がなければ、路上に駐車するしかない。だから、かといって、地上に駐車場をつくるような余裕は都心にはないから、地下駐車場をつくることになる。当時の道路は、自動車があふれていたのだ。その証拠に、戦後、1950年代、地上を走る都電は、毎年のようにスピードが落ちていった。理由は、交通渋滞である。スピードが落ちた都電は、次第に乗客が減り、本格的な自動車社会の到来を迎える。そして、都心に地下駐車場の必要性が迫られた。

秋庭さん、

君は知らないだけだよ。

秋庭さんに好意的な人も、批判的な人も、このムックは、ぜひ読んでほしい。そして、Part1~2と、Part3をよーく読み比べてほしい。

どちらが、ジャーナリストで、どちらがそうでないか。

あえて、そこは語るまい。勝負はついている。


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『大東京の地下99の謎』(秋庭俊著、二見文庫)を読む

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2006年9月26日 (火)

久しぶりのライブは、恵比寿天窓.switchの孔井嘉乃さんだった。

いやはや、昨夜は、9月2日の上野水上音楽堂のライブ以来、久しぶりのライブ観戦となった。ライブハウスのライブは、8月26日以来、ちょうど1か月ぶりになる。お目当ては、Piano&Woman Episode01の「アイアム」でお馴染みの孔井嘉乃さん。ピアノ弾き語りで、昨夜は、ギターとパーカッションが入った。

まだまだお若いけれど、この人が登場すると、ライブハウスがシャキッとするというか、空気が締まるというか、チャラチャラしたユニットなんかとは比較にならないくらい、天窓という空気をちゃんとコントロールできる人である。ライブの回数は少ないけど、天窓系列のライブハウスにはなくてはならない存在である。最近は、恵比寿の常連となった。

オイラは、「アイアム」が大好きだけれど、昨夜の「I know」も、なかなか良い曲だったと思う。

舌足らずで気だるそうな歌い方は独特だけれど、存在感は抜群で、ステージでピアノの前に座るだけで、何だか安心する。

密かに気に入っているアーティスト。

それにしても、オイラにとって、今月のライブは、これで2発目。少なすぎる。未だに新生四谷天窓にも顔を出していない。忙しいから仕方ないのだが、つくづく、ストレスが貯まりそうな今日この頃なのである。

ところで、昨日、オイラのブログは、累計アクセス5万を突破した。

アクセス解析と、ブログにあるアクセス数とは、一致しない。というのは、アクセス解析では、オイラ自身のアクセスを除外するよう設定してあるからだ。

とりあえず、以下は、アクセス解析からの情報である。

累計アクセス数 50630

1日あたり平均 103.12

(9月26日22時33分現在)

ここ数ヶ月は、1月1万くらいのペースかな。

ご愛顧を深く感謝します。

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2006年9月25日 (月)

眞鍋姉さん、ドムドムバーガー碑文谷店に行ってきたよ。いやはや、マックなんかと比べたら、はるかに美味しいよ。

午前中、大井町で、予定していた仕事が1時間ほどおして、仕事が終わる頃にはもう、お昼ご飯の時間。よっしゃ、あの、眞鍋姉さん御用達のドムドムバーガーに行こうと、東急大井町線乗った。

大井町駅から東急大井町線で、自由が丘で乗り換え。東横線の各駅停車で、都立大学で下車。改札口を出たら、すぐ左の、マクドナルドと高架の間の側道を歩くと、少し広い道路、目黒通に出る。目黒通を右に曲がり、高架をくぐり、まっすぐ歩き、環七の立体交差を通り過ぎると、ダイエー碑文谷店がある。

このダイエー碑文谷店の最上階に、フードコートがあって、ここにドムドムバーガーも入っている。

フードコートは、パスタやラーメンやそばなんかも食べられて、その中からハンバーガーを選ぶというのは、なかなか微妙だと思う。お客様は、ほとんどが、子ども連れのファミリー。泣くは、わめくは、各テーブルは戦争である。そのど真ん中で、クールにドムドムバーガーを食べる背広姿のおっさん1人。

はっきり言って、変態っぽいですから!!!

060925_12270001 食べたのは、デミグラスバーガーセット。これがウマい。パンはふかふかやし、肉はジューシー。デミグラスソースが、なかなかウマい。ポテトは、マックよりも太めで、モスよりも細めくらい。ソフトクリームもあるし、ドリンクをフロートにしたりも可能。今は、グラタンもやっているらしい。

で、ファミリー層のど真ん中でひたすらハンバーガーをむさぼり食っていてオイラだが、とても背広姿で居座るには抵抗があった。

眞鍋姉さん、ドムドム祭りは自由だが、空気読まないと、浮くよ(笑)

ここには、2階にごく普通のスタバもある。こちらは、お昼時のフードコートと比較すると、はるかにガラガラで、静かな時間を過ごせる。

さて、遠方からお越しの皆様。

ドムドムバーガー碑文谷店へは、東京駅丸の内口から都バス(東急バスと共同運行)が出ている。少々時間はかかるが、「碑文谷5丁目交番」という停留所で降りると、目の前がダイエーである。目黒駅も経由するので、山手線からも便利である。方向音痴のオイラには、こっちがいいなと思った。

ちなみに、オイラは、生まれて初めて入ったハンバーガー屋さんは、ロッテリア。どっちかというと、マクドナルドよりも、ロッテリアで育った世代である。子どもの頃は、スワローなんてところもあったし、他にもいろいろあった覚えがある。どこで覚えたか分からないけど、マクドナルドは体に悪くて不味い、他はウマいという思いこみがあった。たぶん、弱きを助け、強きをくじくみたいな、意味不明な正義感があるのだと思う。

眞鍋姉さん、ドムドムバーガーは都内に9店舗もあるので、無理に目黒区に行かずとも~。てか、ご近所なんだろうか。結構セレブなマンションが建ち並ぶ高級住宅地である。

そんなこんなで、眞鍋姉さんにトラックバック。

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2006年9月24日 (日)

いつの間にか自分名義の株を持っていたオイラの、ネット証券デビュー

驚いたなんてもんじゃないが、オイラ名義の株があることが分かった。もう、何年も前のことである。証券会社の人に迷惑がかかってはいけないので、あまり難しいことは書かないが、どうやら母親は、オイラ名義で株取引をしていたらしい。それが、実質的にオイラ名義の株になった。ここはあまりつっこまないでほしい。証券会社の営業マンも、何となくここは通り過ぎるほうが良さそうな雰囲気だった。あの母のやることである。触らぬ母に祟りなし、である。

一言だけ書いておけば、オイラは、証券会社に口座を持った覚えがないのに、取引経験10年のベテランらしい。

何の株かというと、中国株と、某造船会社の株である。ここがややこしいのだが、中国株は、訳あって、いじることができず、放置プレイである。本来、オイラの名義なのだから、何をどう売ろうが買おうが勝手なのであるが、営業マンも、あまりつっこまれたくないらしい。オイラも同じである。あの母がやることである。触らぬ母に祟りなし、である。

さて、某造船会社であるが、最近はもう、船を造っていないらしい。

じゃあ、なんぜ造船会社を名乗るのか、そこがよく分からないが、何年も配当が出ていないし、最近はオイタが過ぎたらしく、内部の人が捕まったりして、株価は低迷を続けている。オイラは、株取引には興味がなかったので、名義がオイラになってからも、ほとんど放置プレイに処していたのだが、その間に、上がったり下がったりしながらも、結局、果てしなく下がりきってしまった。

普通、底をつけば、“買い”なんだろうが、この会社を見る限り、買うのは避けたほうが無難なようだ。

何となくそれに気づき、こりゃやばいなあと、売ろうと思ったのだが、普通に株の取引をしようとすると、やたらと面倒である。

なわけで、証券会社のネット口座を開設することになった。

で、今夜、速攻、「指し値」で売り注文。

株のことはさっぱり分からないので、マニュアル本を買うことにした。

もちろん、そこは、オイラのことだから、眞鍋姉さんにご教授願うことになった。

『眞鍋かをりと松本大のいちばんやさしい株のはなし』『眞鍋かをりと松本大のいちばんやさしい株のはなし2』(日本経済新聞社)の2冊。

「チカラを抜いて、スローな投資生活を始めよう」

…だって。

おそらく、母親がこの株を買ったとき、船を造らない造船会社は、まだ船を造っていて、株価は今の何倍も高かったのだろう。そのすべてを取り返すことはできないが、のんびりと投資っぽいものをやってみて、株ってものを楽しんでみようと思う。

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2006年9月22日 (金)

そいつはね、3年前、オイラから消えたやつなんだよ。久しぶりだなあ。

3年前、酒をやめて、オイラは、自分の地位も名誉もみーんな放棄して、自分の人生をゼロにリセットしてしまったんや。そのとき、人格として存在していたアイツも、いつの間にか消えてしまった。最近、ふと、その人格に出会うことがあって、ここ数日、戸惑っていたんだな。

オイラをあんまり強烈にほじくろうとすると、アイツは顔を出すらしい。

例え出会っても、彼の世話役にはならないこと。死ぬとわめこうが、自傷行為を繰り返そうが、徹底的に無視すること。

基本的には幽霊だが、うっとうしい以外には害はないので、ご安心を。あと、自滅型なので、放置プレイに徹すれば、そのうち自滅する。

重いんだよ、アイツの愛し方って…。

あなたのためなら死ねるとか、生きるも死ぬも、あなた次第みたいな。

自分の人生をすべて女に委ねるような依存の仕方。

便利なやつだけど、女が男としてつきあうには、あまりにも重すぎる。

ふったからって、自殺されたら、かなわないもんね。

とっくに消えてなくなったと思っていた。潜在意識の中で、復活するのを待っていたんだろうか。せつないね。今頃出てきても、もう、彼が愛すべき相手もいないし、彼が収まるハコも存在しない。

ある意味、これはスリップなんやと思う。

カウンセリングのとき、「もう大丈夫ですね」なんて言われて、もう終わったように思っていた。スリップするのは、大丈夫じゃないのかと思った。

ただ、今日1日、考えていたのだが、スリップしようがしまいが、オイラは相変わらず、ごく普通のサラリーマンとして、朝になれば会社に出て、夜になれば疲れて帰り、惰眠をむさぼる。3年前、怒濤のごとく仕事をし、倒れていた時代とは随分変わった。

当たり前のように毎日を過ごし、ジェットコースターのような乱高下がない。

たぶん、大丈夫って、こういうことだったんだろうなと。

アディクションってのは、永遠のものだと思う。死ぬまでつきまとうと思う。

どういうわけか寂しく感じるのは、もう嫌というほど鬱に悩まされ、倒れるということがなく、相変わらず毎日を過ごしているからだろう。倒れないと、誰も同情してくれない。誰も心配してくれない。でも、オイラは、相変わらず、明日になれば、平気な顔をして仕事に出る。鬱だろうが、なんだろうが、毎日を過ごす。

大丈夫って、こういうことなのか。

寂しい。

でも、こういうことなんだろう。

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2006年9月20日 (水)

眞鍋姉さん、オイラの先祖は、甲賀の忍者かもしれないんだよ。

もう随分前になるけれど、まだオイラが実家に住んでいた頃、母親がある日、「甲賀に行ってくる」なんて宣った。両親との長いつきあいで、「甲賀」なんてのは聞いたことがなかったし、時代劇ドラマで服部半蔵と戦っている一味という認識くらいしかなかった。その甲賀に、オイラの家のご先祖様が、無縁仏として葬られているというのだ。

どうして、急に、オイラの母親が、先祖の霊を慰めようとしたのか、それは分からない。オイラの知らないところで、おかしな新興宗教にはまっていたのか、それとも、何かのきっかけで、風の噂が舞い込んだのか。

甲賀と言っても、何か大きな街があるわけでもなかったらしい。鉄道は辛うじて電化されていたが、その線の起点に向かうには、名古屋駅から気動車の各駅停車を乗り継いだ。駅前には、小さな食堂があるくらいで、宿泊施設もなかったようだ。田園風景が広がる村をとぼとぼと歩くと、お寺があるらしい。そこに、オイラの先祖は眠っていた。

甲賀の忍者だったのか、今では分からない。

それから、オイラは、苗字の由縁を聞かれると、「忍者だったらしいです」なんて冗談を飛ばす。すると、相手は、不思議なもので、「ああ、それで珍しい苗字なんだー」とあっけなく納得したりして、こちらが否定するきっかけを失ったりする。

オイラの苗字は、順位検索で1万位を越えていた。眞鍋姉さんの苗字も随分珍しいと思うけど、オイラのは、もっともっと珍しいんだね。

人口は、約680人。由来は、「近江発祥か、出自不詳。現在、滋賀県に多く、特に甲賀郡甲賀町神保に集住」とある。

やはり、忍者か。

そんなこんなで、眞鍋姉さんに、ちょっと遅ればせながら、トラックバック送信。

でも、「鈴木」や「山田」では、人生つまんないだろうなー。

いや、平凡な人生のほうが、安全なのかなー。

オイラは、結婚したら、苗字を相方の方にしようと企んでいる。いろんな理由があるからだけれど、そのとき、順位はまた下がって、オイラの苗字はレアものになるのだろうか。そう考えると、急にオイラの苗字が、大切に思えてきた。

眞鍋姉さんが紹介していた「日本の苗字7000傑」

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2006年9月18日 (月)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?24

明治21年8月、東京市区改正条例が発布された。これにより、都市計画の全権を内務大臣に集中。外務省との争いを経て、内務省が都市計画を担うという体制が確立された。これを受けて設置された市区改正委員会は、明治21年10月5日から22年3月5日まで、28回の討議を行い、いわゆる委員会案をまとめる。

委員会案は、法令により実行を保証されている最初の市区改正計画である。

委員会案は、審査会案の核であった築港を捨て、商業都市化をやめ、交通計画中心に後退した。市場は残ったものの、商法会議所や共同取引所、劇場は削除された。いわゆる「旧設計」と呼ばれるものである。

市区改正事業の財源は、地租、営業税及び雑税、家屋税、清酒税の特別徴収と、官有河岸地の賃貸と払い下げにより、年額30万円から50万円に限られていた。

市街鉄道については、明治21年11月2日、田中卯吉委員の発議により、「外郭即ち牛込市ヶ谷四谷赤坂虎の門等を一周せしめ万世橋より新橋に至る」環状の市街鉄道の立案を決め、鉄道技師松本荘一郎に託して成案を得るが、時期尚早として案だけにとどめている。

水道計画については、芳川案では外されていたが、明治21年10月15日、市区改正委員会で盛り込むことが決まった。ただ、上水の完成まで下水は延期することとし、これが、この後の歴史で東京の下水道整備が遅れる原因となっている。

明治22年5月、委員会案が公示。市区改正の事業がスタートする。

が、委員会の大勢は、一部を除き慎重派で占められており、既存の施設を修繕する程度が実行に移されるにとどまった。当時、コレラが大流行していたことから、明治23年4月、上水計画が委員会案に追加。道路計画にまったく手をつけないまま、10年の歳月が過ぎた。上水道は、明治32年12月10日に全市への給水を開始。新参の水道が古株の道路を抜いて着手されるという運命をたどった。

明治33年5月7日、内務省は、主要路線29本をより抜き、5ヵ年1500万円を集中投下する速成事業を決め、上限50万円枠の撤廃を帝国議会に諮るが、議会はこれを否決した。

明治35年2月、計画の削減を決定。36年3月31日、縮小案を公示した。いわゆる「新設計」である。

ところが、明治37年、日露戦争が勃発。2年間、日本の政治は戦争一色に染まり、市区改正は沈黙した。終戦後、東京の一極集中がさらに強まり、市区改正の必要性に迫られた。内務省は、外債発行と東京市臨時市区改正局設置による新設計速成を決め、即実行された。

新設計が完成したのは、大正3年のことである。

市区改正は、旧設計時代も含めると、2812万円を道路に注ぎ、38万1445坪を買い上げ、延長9万6575間の道を改修した。

道路事業で最も大きな成果は、日本橋大通りの改良である。万世橋・京橋間2650メートルの街並みの西側に連なる200坪を越える商家を軒並み削り取り、道路を5間広げて15間とし、左右各反間を割いて、並木道にあてた。

鉄道は、上野・新橋間の縦貫鉄道が完成し、現在の東京駅となる中央ステーションが完成している。山手線や中央線、近郊私鉄線も、市区改正の成果である。

火葬場、墓地は予定通り完成。公園は、旧寺社地転用を除くと、新規開設はお茶の水公園ただ1つだったという。

市場は、手つかずに終わった。

さて、今夜は、『帝都東京・隠された地下網の秘密2』(新潮文庫)からである。

首都建設という大命題「市区改正」は、まさに湯水のように金を使い、五年が過ぎ、六年が過ぎ、七年が過ぎたが、だが、東京は何一つとして変わらなかった。どこにどんな道路を敷くという計画図は発表されていたが、そんな道路はどこにもできなかった。(P126)

確かに市区改正は、「10年経っても、1本の道路も敷かなかった」という期間が存在する。が、その期間、何もしていなかったかと言えば、既存施設の改良や上水道の整備を行っている。道路を敷くのは、日露戦争が終わった後のことである。予算は湯水のようには使えず、年間50万円という限度枠が設けられていた。市区改正の成果は、前述した通りである。

海の中の道路を敷いた事実はないことも、前回述べた通りである。

つまり、「市区改正」は初めから地上の計画ではなかった。(P129)

つまり、市区改正は、初めから地上の計画でしかなかった。秋庭俊さんは、市区改正の時点で東京に地下網が敷かれたと、あちこちで主張しているが、そんな事実は史実からはまったく妄想不可能である。市区改正は、紆余曲折を経ながらも、つくるべき道路をつくり、使っただけの予算を費やした。

次は、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)より。

市区改正・下水改良は、このように何の成果もなかった。(P270)

下水改良が実は、国民に隠された地下鉄建設だったという話は、秋庭さんの書籍のあちこちに登場するが、これも誤解。市区改正が湯水のようにお金を使った事実はないし、お金を投資した分の道路や施設改良はちゃんと行われた。

下水改良は、確かにあまり成果が出なかった。

それは、前述したように、市区改正委員会の方針は、最初から、上水を先に整備し、完成後に下水に着手する、という優先順位だったからである。近代国家はどこでも上下水道は並行して着手するものだ。川上だけ整備して、川下がなかったら、水は汚くなるばかり。これが、帝都復興でも問題になるのだが、その話は、また次の機会に。

内務省は、上水完成を待ち、ようやく下水の調査を開始する。明治41年4月11日、ようやく下水計画を公示。計画人口300万人、雨汚水合流、簡易沈殿処理方式だった。が、すでに財源は底をつき、事業は進まない。大正2年11月、国庫補助を受けて、ようやく鍬入れが行われる。大正12年、下谷、外神田、浅草の低湿地帯のみ完了しただけだった。上水道整備が、伝染病対策を契機に委員会案に盛り込まれたことはすでに前述したが、この頃、世界の伝染病対策は、水道から注射へと転換しつつあった。下水改良が本格化するのは、関東大震災の後のことである。

市区改正は、日本初の都市計画である。

『東京都市計画史論』(寺西弘文、東京都市計画社)では、市区改正旧設計(委員会案)を解説して、こんなことを書いている。

千代田、中央両区内で都市計画された道路網密度は、現都市計画道路網密度の2倍あまりの高い計画水準であった。

計画区域内における今日の計画道路網体系と比較したとき、約70%が重複し、その旧設計による計画道路網体系の大半が今日の計画道路網体系をカバーしている。

市区改正で計画された道路は、すべて実現したわけではないが、今日の都市計画の源流となっている。現在、東京の基幹道路のほとんどには、地下鉄が走っており、市区改正が示した道路と、現在の地下鉄網が重なることも多い。でも、ここまで述べて来たように、市区改正のときに、国民に隠れされた地下鉄が建設された可能性は、かなり低いと言わざるを得ない。

秋庭さんは、オイラが教科書にした『明治の東京計画』を自著の参考文献に挙げている。これを読めば、市区改正にちゃんと成果があり、財源が限られていたことが分かるはずだが、秋庭さんの著書にはそれがまったく反映されていない。どうして、秋庭さんは、この文献の記述を無視したのであろうか。その辺は、ぜひ本人に聞いていただきたい。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。


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東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?23

さっきテレビを何となくつけたら、テレビ朝日で『素敵な宇宙船地球号』という番組をやっていて、「追跡!謎のアンダーグラウンド」と題して、日本中の地下の秘密に迫っていた。秋庭俊さん曰く、「入ると違法」の地下変電所に、松岡修造さんが入り込み、洞道に仁王立ちしていた。地下鉄霞ヶ関が戦前の防空壕を壊してつくったことも明らかにされていた。「極秘」という地下が、次々に明らかにされていく。

秋庭さん、あなたは、ジャーナリストが入ってはいけない世界に足を踏み入れた。

それは、オカルト…。

今夜は、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(新潮文庫)より。

東京湾・月島に矢印をつけた。「1等1類」の道路が海のなかへと延びている。いま、この道路は地下鉄大江戸線に一致している。市区改正時にこの道路が建設されたかどうかわからなくても、このような計画図を製作している以上、当時の政府はシールド機を持っていたか、まもなく買う予定があったということだと私は思う。(P266)

図には確かに、月島付近に道路が延びている。海のように見えるが、原典を見ると、ここが埋め立て地になる予定だったことが分かる。原典は、『東京都市計画資料集成(明治・大正篇)・第34巻』(本の友社)に掲載されている。この月島地区は、明治18年10月の市区改正審査会案では、埋め立てを行い、東京港が建設される予定だった。その真ん中を貫く1等1類の道路が、これである。委員会案(明治22年3月)では、築港計画を棚上げしてしまったが、埋め立て地を貫くこの道路だけは残っていた。結局、新設計(明治36年3月)では、この道路計画は外されてしまった。

従って、秋庭さんは、シールド機の開発まで妄想しているが、ここにはトンネルなど掘る理由はないし、掘っていない。そもそも、万が一、極秘の地下道を通すにしても、海底に、途中で途切れてしまうトンネルを掘る理由などない。そんなトンネル、いらない。使えない。

秋庭さんは、明治時代の市区改正を根本的に誤解している。

明治から昭和に至る都市計画を簡単に学ぶなら、『東京アーカイブス』(芦原由起夫、山海堂)が分かりやすい。市区改正について詳しく知りたいなら、『明治の東京計画』(藤森照信、岩波書店)が最も最適だと思う。

市区改正の起源は、明治11年、楠本正隆府知事が、東京の市域の再検討に着手したことが始まりだった。

“この10年間、東京は江戸の朱引をそのまま引き継ぎ、自分の枠としているが、はたしてそれで良いのか”

明治13(1880)年、松田道之府知事は、「東京中央市区画定之問題」を策定。「中央市区及新港の位置を定るの目的を立んとす」とし、東京港への国際貿易港開港をぶち挙げたのだった。東京の中央に、有力商人や製造業者だけが集まる繁栄の街をつくろうというのが狙い。が、その本音は、金持ちの囲い込みと、貧富の住み分けというものだった。これに対し、石川島造船所社長の平野富二氏が「市区改正並築港之要項」という、17項目に及ぶ対案をぶつける。ここで初めて、「市区改正」という用語が登場した。

明治13年12月、第1回市区取調委員総会は、さすがに貧富の住み分けという中央市区には批判が多くて、計画から切り捨てた。道路・運河といった市区改正と築港の2課題を抽出し、築港最優先の方針を打ち出す。

松田府知事の急死に伴い、明治15(1882)年7月19日、芳川顕正府知事が就任。芳川知事は、築港計画を白紙にし、ほとんど手のついていなかった市区改正計画を正面に掲げた。明治17年11月14日、「市区改正意見書」を内務卿に上申。いわゆる、「市区改正芳川案」である。

芳川案では、旧江戸より一回り小さい東京を想定し、既存道路の拡幅とつけかえ・つなぎ合わせにより、閉じた旧封建都市江戸を開くことに主眼が置かれていた。東京を国土の交通ネットワークの収束点にすえた、交通重視の計画である。真ん中には、上野と新橋を貫く縦貫鉄道がある。

これを受け、明治17年12月17日、内務省内に市区改正審査会が設置された。

審査会案では、交通中心の芳川案に、築港、遊園、市場、劇場、商法会議所などの施設計画を加え、全体としては築港を軸に商業都市化を狙うものだった。ここで、秋庭さんがシールドのトンネルと言っていた築港道路が幹線として登場した。

明治18(1885)年10月18日、芳川府知事から内務省の山県有朋に対して、審査会案の復申がある。山県は、ただちに太政官に上申し、審査会案の了承と、東京市区改正局を内務省に新設するよう、裁可を求めた。

ところが、審査会案も、東京市区改正局の設置も、たなざらしにされる。

外務卿井上馨は、太政官直属事業として、官庁集中計画を立案していた。日本は、当時、幕府と欧米列強が結んだ不平等条約の改定交渉をしていた。が、欧米列強からすれば、田舎侍の日本が何を言ってやがる、エラそうなことは、西洋並の近代国家をつくってから言えと、相手にされなかった。井上は、西洋並みの官庁街を持つ文明国として、対等に扱わせ、なめられ続ける交渉を盛り返したいという思いがあった。

つまり、鹿鳴館の都市版。

内務省の東京市区改正局の設置どころか、外務省に臨時建築局まで設置されてしまう有様だった。

明治19年12月25日、臨時建築局総裁の井上馨と、副総裁三島通庸が、総理大臣伊藤博文宛に、市区改正の権限を内務省から建築局に移すよう建議書を提出した。

内務省vs外務省

時代が変わっても、省庁の争いは同じらしい。

この対立、あっけなく内務省の勝利に終わる。不平等条約改正交渉が決裂し、井上外務大臣が辞任すると、臨時建築局は内務省の所管に移される。条約交渉自体がなくなれば、官庁集中計画など存在意義を失った。2年間の沈黙を経て、市区改正計画は復活する。

明治21年8月、東京市区改正条例が発布。当時の元老院は否決したが、内務省は強行した。これにより、都市計画の全権を内務大臣に集中。市区改正委員会が発足した。築港計画は、当時の日本最大の国際貿易港・横浜港を持つ神奈川県からの反発が強く、内務省は、横浜港の大改造へと傾いたため、外された。

明治の初期、東京のビジネスの中心は、兜町だった。運河による海運が優れていたためだ。築港計画も、兜町のビジネス街としての強化が背景にあったに違いない。ところが、時代は、海運から陸運へと変わりつつあった。上野と新橋を結ぶ鉄道の計画が具体化していくと、海運より陸運の便がいい丸ノ内にビジネスの拠点をつくろうという話になる。市区改正委員会案では、築港計画は消え、丸の内オフィス街計画が盛り込まれ、これに従い、三菱が払い下げを受けて、オフィスビルを建設。東京の経済の中心は、兜町から丸の内へと移動していく。市区改正の歴史を紐解くと、そんな時代の変化を垣間見る。

さて、あの海の中を貫く道路が、極秘の地下道だと、ここまで読んでも信じることができるだろうか。歴史を正しく認識すれば、市区改正が地下の計画などという滑稽な妄想は、出てくるはずがない。市区改正が地下の計画なら、官庁集中計画は何だったのか。外務省と内務省は、なぜ対立したのか。地下の利権を争ったのか。妄想ならいくらでもできるが、明治時代の都市計画が、内務省と外務省との激烈な争いの中にあったという事実から想像できることは、ここに地下網という妄想を挟む余地はないということである。

では、市区改正は、湯水のように金を使って、道路1本敷かなかったのではないか。

秋庭さんは、様々な書籍でそう書いている。

が、そんな事実はない。

今夜書いたことは、市区改正の計画が、現実政治の遡上にのぼるまでの話である。ここから、市区改正が実際に動き始め、完成に向かう話は…、申し訳ない。長すぎて、今夜はここでお開きである。

もしも、もっと早く知りたいという人がいれば、ぜひ上で紹介した本を読んでみていただきたい。オイラはもう寝たいので、今夜のところは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。


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2006年9月17日 (日)

久しぶりの京都、でも、もう撤収(T.T)

久しぶりの京都、でも、もう撤収(T.T)

久しぶりの京都、でも、もう撤収(T.T)

昨日、朝、新宿から高速バスで京都へ到着。大学時代の旧友らと宴を催し、1泊。今朝は、慌ただしく土産物屋を物色したあと、新宿に戻るバスに乗る。

とりあえず、結論から言えば、「相変わらずやなあ」という言葉は、人が節目を迎えたときに、とても安心する大切な言葉だということだろう。

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2006年9月14日 (木)

ノーメイクの眞鍋姉さんに撃沈したよ。オイラも寝ます。おやすみなさい。

060913_222705_m やっぱ、ノーメイクでも、きれいやんなー。中に着ているTシャツが24時間テレビの黄色Tシャツだったりするのも、いいねー。オイラも、寝るときのTシャツは、エラいダサいのだったり、大昔のだったり、恥ずかしい柄だったりする。ちなみに、最近は、胸に大きな唇が描いてあったりする。接近すると、食べられそうで怖い。眞鍋姉さんは、かわゆい寝間着みたいやね。オイラは、夏も冬も、ジャージやね。

オイラも、先ほど帰宅したばかり。

もうあかん。

眠ってしまいそうや。

眞鍋姉さん、そろそろ、夢の中だろうか。

オイラも、布団に入ることにしよう。

おやすみなさい。

あ、その前に、眞鍋姉さんに、トラックバックを送信。

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2006年9月12日 (火)

ギャンブルとしての競輪と、オリンピックの競技種目としての競輪の違いが分からないジャーナリスト

秋庭俊さんの公式サイトが更新されている。彼の近況報告は、すこぶるおもしろい。読んでいると釘付けになる。熱中できるってうらやましいなあ、盲目ってうらやましいなあって、心底感じるんだ。

文京区は競輪の復活に反対していますが、なぜか東京ドームの下には競輪のバンクが完成していて、この話は以前『地下の謎86』でも取り上げたので、ご存知の方が少なくないと思います。今回、東京都がオリンピックに立候補し、見事当選したあかつきには、この地下のバンクで自転車競技が行われるということです。これでツジツマが合ったのかどうか知りませんが、ここで問題なのは、すでにバンクは完成しているため、建設費はかからないということではないでしょうか。

確かに、文京区は競輪の復活に反対している。東京ドームには競輪のバンクが完成している。面白いのは、それを暴いたのは自分だと信じて疑わないところである。東京ドームの競輪バンクを使って、自転車競技をやっていることは、かなり有名な話だし、テレビ中継だって行われている。ギャンブルとしての競輪が行われていないだけで、すでに競輪は、既成事実化されているのだ。

もっと面白いのは、「地下のバンク」とまで宣っているところである。安心してほしい。オリンピックで自転車競技が行われても、観客は地下に潜る必要もないし、地下からぐいーんと競輪バンクが上がってくるわけでもない。競輪バンクは、もっと効率的にウマい具合に収納されている。今まさに、ジャイアンツナインが走り回って、上原が剛速球を投げている、あのグラウンドと同じ場所に競輪バンクも登場する。

「すでにバンクは完成しているため、建設費はかからない」というのも、まったくその通りで、石原知事は、オリンピック招致を契機に、東京ドームで自転車競技を行い、競輪を既成事実化させようとしていることは、容易に想像できる。競輪を行うバンクなんて、都内に他にどこにでもあるのに、わざわざ競輪で一悶着あった東京ドームで行うなんて、何か意図があるとしか思えない。

が…。

「隠された地下網」とは、何の関係もないし。

これだから、秋庭さんは、おもしろい。抜けているし、ずれている。無邪気でまっすぐな心を持っている。童心って、こういうことだと思う。

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表参道な昼休み・秋雨しとしと編

表参道な昼休み・秋雨しとしと編

エチカのお蕎麦屋さんで、お昼ご飯を食べた。前から気になっていたお店。メニューが若い人向け。食べたのは、せいろそばとミニきじ丼。蕎麦は、それほど絶品というわけではないけど、味はまあまあかな。蕎麦湯が美味しい。これ、体が休まるし、浄化されるんだよね。ミニきじ丼は、肉がやわらかくて脂ものっていて美味しい。今度は夜に来て、ゆっくりくつろぎたいなあ。

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2006年9月11日 (月)

最終回…

「もう大丈夫ですね」

今日、カウンセリングの最後に、彼女はそう言った。

7年も通った。

最初は、他人の話ばかりしていた。

今日は、自分の話ばかりしていた。

何の話かって?

それは…。

秘密。

オイラ、今日、1つ卒業した。

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2006年9月10日 (日)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?22

先日、何気なく、Googleで、「東京地下要塞」と検索したら、オイラのブログが一番上に登場した。何と、秋庭俊さんの公式サイトよりも、はるかに上である。

ぶったまげた。

ここんとこ、やけにアクセス数が増えたなあと、他人事のように思っていたが、たかだかオイラのブログなのに、多くの人が訪れたのだなあと感慨深かった。

今日は、これまでの内容を若干補完しようと思う。内容は重複している。

まずは、『新説東京地下要塞』(講談社)からの引用である。

だが、サンシャインシティの周りの機関は一つも該当せず、調査の範囲を広げた結果、それは豊島区役所のことだとわかった。五〇〇メートルも離れた所は、普通は「周囲」とはいわないものだが、区役所に気をつかっていたのかもしれない。この事実はごく限られた人にしか知られていなかったからである。(P70)

東京都都市計画局が作成した『地域冷暖房施設事例集』(2000年3月)という冊子がある。「地方分権一括法」の成立により、2000年4月より、地域冷暖房施設の都市計画決定権者が、特別区では、都から区へと事務移管された。その際に、都が、都内の地域冷暖房施設の全事例を列挙した冊子である。

地域冷暖房施設には、都市計画決定が必要である。市町村なら都が、23区なら当該区が、都市計画決定を行う。都市計画決定には、当該自治体の都市計画審議会に諮る必要があるから、地域冷暖房施設を極秘に作ることなど不可能である。

この冊子を読むと、サンシャインシティから豊島区役所まで延びる洞道は、「東池袋1号線」といい、延長約440メートルである。ちなみに、大手町にも同様の施設があり、ここでは最大で洞道延長約700メートルを誇る。池袋駅を挟んでサンシャインシティとは逆側にある西池袋にも、地域冷暖房施設があり、ここでも最大で延長約510メートルの洞道がある。

新宿西口やサンシャインシティには、冷暖房の洞道がある。公園やビルの下に冷暖房の施設があり、そこでつくられた暖気や冷気は、洞道を通じて各ビルに送り込まれている。この地下道の高さも二メートルを超えるくらいで、ほとんどは地表近くの浅いところに敷設されている。やはり、ルートは公表されていない。(P44)

これはオイラの予想だが、秋庭さんは、西新宿の地域冷暖房施設のプラントが、新宿中央公園の下にあると勘違いしている。このプラントは、パークタワービルに隣接した東京ガスの建物の地下にある。洞道は、最も長いもので760メートルあり、合計で1140メートルの洞道が延びている。新宿中央公園の地下にあるのは、超高圧地下変電所である。地域冷暖房施設のプラントが公園の下にあるという事例は、オイラが知る限り、ない。

西新宿一帯には、これ意外にも別個の地域冷暖房がある。例えば、工学院大学の地下やエルタワーの地下にもプラントがあり、「西新宿1丁目地区地域冷暖房施設」と呼ばれている。洞道延長は、全体で約630メートルに達する。地下変電所がある新宿中央公園も含めた副都心の西側に位置する地域、西新宿6丁目、2丁目、8丁目、北新宿2丁目にわたる約19ヘクタールを供給範囲として、「西新宿6丁目西部地区地域冷暖房施設」がある。さらに、西新宿には、アイランドタワーに地域冷暖房のプラントがある。

西新宿一帯は、秋庭さんの想像をはるかに超えて、穴だらけである。

ルートの詳細は、前述の冊子に、地図といっしょに掲載されているので、確認されてみてはいかがだろうか。

さて、もう1つ、これまでの情報を補完しよう。

新橋-三原橋間には、結局、市電の線路は敷かれず、戦後もこの区間には都電は走っていなかった。(P134)

『東京・市電と街並み』(林順信、小学館)に過去の市電路線図が掲載されていた。

明治40年3月20日付の路線図には、三原橋-新橋間は存在しない。その後、震災後の大正15年3月の路線図には、三原橋から新橋までの路線もあり、停留所も間に2つある。昭和11年10月付の東京市電気局の最初の大型路線図には、三原橋から新橋まで線路があり、三原橋から赤坂見附を通り、飯田橋に至る32系統という路線がある。

当然、戦後にGHQが撮影した航空写真には線路があり、それをもとにして作成された地図にも線路がある。戦後、この区間は廃止された。

最後に、『地下・地下・地下!』(稲田善紀、森北出版)に、高輪変電所をめぐるこんなエピソードが紹介されていた。

高輪変電所は、高野山東京別院が、弘法大師の御入定千百五十年記念事業として、お寺を建て替える際に、都内10番目の超高圧地下変電所を建設したのだそうだ。仏教では、どこのお寺でも、本尊を祀ってある真下の地面に、経典など大切なものをいわばタイムカプセルのように埋めておくらしいが、ここには変電所がある。そこで、地下7階の下の地面に埋めてあるのだそうだ。

ちなみに、工事前のお清めは、神式ではなく、仏式だったという。

検索エンジンというのは、なかなか奥が深い。ブログやサイトの作者が、それを意識しなくても、目立つ場所に上がったり、検索してもなかなか出てこなかったり。検索エンジンでヒット数を増やすコツがあるらしいけれど、オイラはまったく知らない。それにしても、なぜ、東京の地下は、これほど人の心を魅了するのだろうか。その辺は、ぜひ、皆さんに聞きたいところである。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。


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2006年9月 5日 (火)

オイラは何一つ変化がないのに、世界が慌ただしく過ぎていく今日この頃

この2年あまり顔を出していなかったが、担当のカウンセラーが来年3月で退職することになった。突然の手紙に驚いたが、今のオイラは、あまり大きな揺れもなく、精神的には落ち着いているので、最後に1度だけカウンセリングに伺うことになった。

最後に会ってから1年半くらい過ぎていただろうか、大学時代の旧友が青年海外協力隊として、コロンビアに行くことになった。先週土曜日、浅草でもんじゃを食べながら、門出を祝った。みんなでお金を出し合って、渋いじんべえをプレゼントした。

会社で先輩が1人退職する。オイラが入社以来、11年間の間柄。突然のことに驚く。

かつての後輩が妊娠した。最初出会った頃は、中学生みたいだったが、時間が過ぎるのは早い。

気がつくと、オイラは、別世界に生きていた。

オイラが変わったのか、世界が変わったのか。

この数年、何も変わらない毎日を送っていたような気がする。周りがどんなに変化を求めても、オイラは、オイラなりに、何もない毎日を繰り返した。無意味な出来事の繰り返しにこそ、意味があるんだと思っている。とるにたらない日常をたくさん積み重ねると、そんなに大きなイベントやサプライズがなくても、幸せを充足できると思う。そうすれば、ジェットコースターのような感情の乱高下を経験しなくても、それなりの幸せと不幸を抱えて、壊れずに生きていけるのだと思う。

カウンセラーに会ったら、胸をはって、

相変わらずです。

そう伝えようと思う。

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2006年9月 3日 (日)

東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?21

秋庭俊さんの著作は、意外に売れている。最初に出した地下本は、名前も知らないような出版社だったが、その後有名出版社で文庫化された。最新刊は、天下の講談社である。あちこちのブログを見てみると、かなり多くの読者が、彼の主張を肯定的に捉えているようである。でも、これまでオイラが検証してきたように、彼は、地下鉄や都市計画などについて、認識の誤りが多くあり、信憑性が薄い。

では、何故、彼の著作は、ウケるのか?

そんなことを考えていたら、1995年のオウム真理教をめぐる一連の出来事を思い起こした。あの頃、テレビで、オウムの信者が、「アメリカがサティアンに毒ガスを巻いている」と主張していて、上空を飛行機が飛んでいるのを見て、「あれがそうです!」と指をさして、悲鳴を上げて逃げ回っていた。

あの信者は、マジだったと思う。

が、信者に対して、どんなに「アメリカはそんなことしない」と説得したところで、彼は信じようとしないだろう。理屈の世界ではないからだ。

オウム真理教の幹部は、有名大出身の理系エリートばかりだった。科学を研究対象とする彼らは、なぜオカルトに走ったのか。

『オウム・超常信仰と科学』(日本科学者会議編、清風堂書店)で、立命館大学教授の安齋育郎さんは、「オカルト・超能力を科学する」と題して、こんなことを書いている。

地下鉄サリン事件のあと、マスコミから、「なぜ、あれほどの理系エリートたちが、一見きわめて非理性的と見えるオウム真理教に心寄せ、反社会的な犯罪者にまで身を落として行ったのでしょうか」という質問を受けたという。安齋さんは、これに対して、以下の7つの答えを出すそうだ。

(1)科学的真理は、発見した場所や、発見した人の宗教上の信条などには一切関係なく普遍的である。

(2)課題意識が明確で研究能力の高い研究者ほど、ある種の疎外感を持ちやすい。そのような感情が、若手の理系研究者たちを現状の研究組織から弾き出していく原因となる。

(3)十分な研究時間と1か月100万円近い収入など、オウムが魅力的な研究条件を提示した。

(4)科学と価値の関係の問題に悩んでいた若手の理系エリートが、麻原教祖の価値観の提示-科学者にとっての生きがいの提示-にある種の魅力を感じた。

(5)ヨガ道場が教団と研究者を結ぶ1つの場となった。

(6)オカルト流の科学者は何もオウムの科学者たちに限られず、昔もいたし、今もいるし、これからもいるであろうということを、オウムの事件は我々に示したに過ぎない。→例えば、コナン・ドイルは、医者であるとともに、イギリス心霊主義者協会の会長だった。

(7)研究者たちは、いったんオウムに身を寄せたら最後、簡単には抜けられない教祖絶対体制が支配していた。

オイラたちが生きている社会は、道理が通らない社会である。株で一夜にして億万長者になるかと思えば、罪もないのに突然リストラされてしまう。政治家たちは腐敗し、金持ちだけが得をする。公務員が犯罪を犯す。アメリカが同時多発テロに沈む。そんな先行き不透明で、「正義」のようなものの指標や価値観が分からなくなってしまった現代だからこそ、国民は、みんな「政治家や公務員は、何かを隠しているはずだ」という意識を持っているし、実際、そうだったりする。

では、その悪行や秘密を暴くはずのマスコミやマスメディアはどうかというと、政治家や公務員と結託して、国民にとって知るべき情報を暴くには至っていない。

秋庭さんの著作の根底には、この“社会不信”が根強くあると思う。同時に、“自分は社会からはみ出しているのではないか”という疎外感も強く感じる。

同時に、“自分にしかできない”“自分だけが知っている”という選民思想のようなものも感じる。それは、あの理系エリートたちが、“自分の能力を使って、自分たちが世界を変える”という宗教的意識と似ていると思う。

秋庭さんのような有能なジャーナリストだった人が、何故、信憑性の低いオカルト本を出しているのか。そして、何故それが支持されるのか。その答えは、オウム真理教事件と、社会的背景が同じだと感じている。

存在しない事実をたくさん並べても、真実を暴くことなどできない。

安齋さんは、こう呼びかけている。

不確かな観測事実に基づいて結論を急ぎ、人間の感覚器官は錯誤に陥りやすいものだということを軽視し、体験を絶対化して幻視の世界に迷い込むのではなく、「なぜ」に徹底的にこだわり、「分からないことは調べればいい」という態度を貫くこと-これが「未知との遭遇」にあたっての原則的な態度というべきであろう。

前述の著作では、大阪教育大学教授の秋葉英則さんが、「現代青年の行動様式と価値観」と題して、マスコミの墜落を指摘している。

インチキ占い師を登場させ、前世は何だとか、改名を強要するとか、「地獄に堕ちる」とおどすとか、背後霊のせいだとか、昔からマスメディアは変わっていない。むしろ、最近は、そこに「科学性」の虚飾を与えるときもあり、血液型占いを本気で信じて、恋愛している人も多いのではないか。

秋葉さん(秋庭さんではないよ)は、マスコミの病には2つの側面があると指摘する。

(1)センセーショナリズム(視聴率第一主義)

(2)シニシズム(皮肉癖、あるいは冷笑主義)→「どうせ政治は汚い」と皮肉り、真相に迫ることを避ける。

テレビで流行る「超能力番組」は、センセーショナリズムとシニシズムの悪い組み合わせの構図だと、秋葉さんは言う。

秋庭俊さんの一連の著作は、まさに、センセーショナリズム(戦後も政府は政府専用地下道を構築している)と、シニシズム(誰も真実など語らない)という組み合わせの典型なのだ。

さて、信者に怒られないうちに、お断りをいれておくべきだろう。

オイラは、秋庭俊さんが言うような国民に隠された地下網が、信憑性が薄いと思ってはいるものの、すべてがガセネタだとは思っていない。

最後に、1つだけ、地下ネタを披露していこうか。

『巣鴨プリズン記録写真集』(撮影・編集織田文二、丘書房)

「巣鴨プリズン」とは、現在のサンシャインシティが建つ敷地にかつてあった、戦犯収容所である。ここには、秘密の地下道があったらしい。

この地下道は女区から庁舎西側中庭まで60~70米の長さがある。旧東京拘置所時代、女区に収容した女子刑事被告人が男子刑事被告人に姿を見せず出廷・護送できるよう作られたものである。A級戦犯もこの旧女区に収容され、この地下道を使用した。地下道は中央部に配水管が通っているため5段の階段があり、曲折はないが真っ直ぐではなかった。天井には裸電球が6箇所とり付けられていた。

この地下道が、現在どうなっているのか、他には地下道はなかったかは、ぜひジャーナリスト・秋庭さんに調べてもらってほしい。オイラのほうは、「いろいろ、あるんだよ」とでも言うよりほかない。


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東京の地下鉄は戦前にすでに作られていたという噂は本当か?

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『新説東京地下要塞-隠された巨大地下ネットワークの真実-』を読む

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『写真と地図で読む!帝都東京・地下の秘密』(洋泉社MOOK)を読んでみた。

『大東京の地下99の謎』(秋庭俊著、二見文庫)を読む

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2006年9月 2日 (土)

上野公園

上野公園

もう秋だね。梅雨が長かったせいかな。今年の夏は、すごく短く感じた。蝉の鳴き声と、秋の虫の合唱が混じりあう季節。やけに猫が多くて、みんなのアイドルと化している。

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誰もがジョンレノンになった気になって、街中、平和主義者に満ちあふれていたんだ。

誰もがジョンレノンになった気になって、街中、平和主義者に満ちあふれていたんだ。

そんな、こっぱずかしいフォークソングを聴けるのも、こういうイベントのおもしろさかな。

寂しかっただけなんだ…。

僕らは、何でもかんでも神様のつもりでいたんだ…。

堕落した自分たちは、浄化できると思っていたんだ…。

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タンドリーチキン待ちな昼下がり

タンドリーチキン待ちな昼下がり

タンドリーチキン待ちな昼下がり

平和だなあ。タンドリーチキンにチャレンジしようとしたら、10分待ち。いつまで食ってんだ、そんなツッコミもなんのその。

このイベント、ネットで生中継しているらしい(☆o☆)

って、言っているうちにタンドリーチキンが届いた('-^*)/

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食ってばかり、気持ちよい天気だね

食ってばかり、気持ちよい天気だね

昨年も、食って、食って、デブったけど、今年も同じ(≧▽≦)ゞ

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夏の神様、ありがとう、ありがとう。

夏の神様、ありがとう、ありがとう。

拝郷メイコ様。「夏の神様」「サーカス」「海月」「グライダー」の4曲を熱唱。

この人は、いいねえ:*:・( ̄∀ ̄)・:*:

アルバム「ソイトゲヨウ」は、擦り切れるほど聴いた。

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きゅうり

きゅうり

激しくうまいよ♪(*^ ・^)ノ⌒☆

1本150円

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上野水上音楽堂

上野水上音楽堂

四谷天窓5周年、夏祭り。今年も昨年に引き続き遊びに来てしまった。夕方は、もんじゃ食べに浅草へ。

暑いね〜(~Q~;)

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2006年9月 1日 (金)

眞鍋姉さん、こりゃあ、便利なもっこりだねえ。

もっこり部分が着脱自由だなんて、まあ、素敵なことで…。しかも、ひも付きだし。引っ張ると気持ち良いのだろうか、まりもっこりくん。取り外して、楽しんで、再び装着して…。ある意味、“ピー”みたいなもんだよね。“ピー”“ピー”して、でもって、ひもを引っ張って、“ピー”なんてね。(自主規制)

眞鍋姉さん、北海道に行ってきたのかな。お土産は、この、エロ目のまりも?

そんなこんなで、眞鍋姉さんにトラックバックを送ろう。

エロキモい?

う~ん。

っていうか、

エロ意味不明?

エロ謎?

観光地にそびえる、何とか秘宝館に入ったはいいが、中身が微妙だった、そんな感じだろうか。

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