« 2005年7月 | トップページ | 2005年9月 »

2005年8月の29件の記事

2005年8月31日 (水)

くじ運はかなり悪いほうだ。

今夜は、自由が丘のマルディグラに、usuとウエタマミコさん、そして、初遭遇のeckkoさんのライブを見に行った。

ウエタマミコさんが、ライブ中に突然じゃんけんをしようと言い出し、会場のお客さんとじゃんけんを始めた。今夜は、私がマルディグラに通い始めて以来、初めてってくらいの大入り満員で、30人以上はいただろうか。最後まで勝ち抜いたのは、何と私であった。

勝ち抜いた人へのプレゼントがあって、それは何故だか、お手玉??だった。口でふーっと膨らますやつ。ウエタさんが「うちでそれをポンポンしていると無心になるんです」と恐いことを言っていた。

隣り合わせたお客さんが、「こんなとこでくじ運使い果たしていいんですか」と、これまた恐いことを宣っていた。いいわきゃない(笑)

自慢じゃないが、くじ運はないタイプだ。じゃんけんは、勝った試しがない。昔から、運にも不器用なのである。宝くじは、最高3000円である。おかげさまで、酒に溺れることはあっても、ギャンブルにハマることはなかった。私に奇跡など舞い降りない。両親は、宝くじで200万円当てて、1年もしないうちに破綻した。私は、これでいいのだと思っている。

もしかすると、私は、今夜、一生分の運を使い果たしたのかもしれない(笑)

勝ち残り5人には、明治のコーヒービートのカフェオレ味をいただいた。帰りの電車で、そのほろ苦い甘さを楽しみながら、生涯たった一度かもしれない、今夜のじゃんけんフィーバーの余韻に酔いしれていた。d1000001.jpg

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年8月30日 (火)

あなたは待つ方ですか、待たせる方ですか?

D1000053私は、いつも待たされる人である。大学時代、私の友達は、実は、私は彼女に恋をしていたからかもしれないが、彼女は、朝9時に大学の学部棟の前で待ち合わせをして、夕方4時に現れたが、私は、ビクともしないで1日中そこで待ち続けていた。

自慢じゃないが、私は朝が苦手だ。その日も、ハッと起きると、すでに午前8時を回っていたので、すぐに飛び起きて、タクシーに飛び乗ったのだ。何とか、待ち合わせの場所に着いたのは、朝9時ちょうど。私はアホである。時間通りに着いたのに、寝坊したという負い目があったからだろうか、もしかして彼女はもっと早く着いていて、早く来ない自分に腹を立てて帰ってしまったのではないだろうかと、心配したのだ。それで、その負い目に答えるかのように、ずっと私は、待ち合わせの場所で何時間か待ち続けたのだ。が、彼女は現れなかった。ぼーっとしたり、本を読んだり、居眠りしたり、とにかく、私は待ち続けた。

夕方、もう彼女は来ないのかとあきらめていた頃、キャンバスの向こうから、見慣れた姿が近づいてきた。彼女は、かなり遠くから、私の姿を見つけると、無邪気に微笑んで、何か楽しいものを見つけたような顔をして、ピョンピョンと跳ねながら、こちらに向かってスキップしてきた。

「おはよー」

何故だろうか。私は怒らずに、ホッとした。

次の日、私は同じように、同じ時間に、同じ場所で待ち合わせをした。が、今度は、彼女はついに現れなかった。さらに翌日、大学で彼女に出会ったので、「昨日、どうしたの?」と聞くと、彼女はムスッとした顔で、「ごめん。用事あったの」と答えて、横を向いた。

それ以来だと思う。私が出会う女性は、ほとんど確実に私を待たせる。だが、彼女以上に大胆かつ豪快に待たせまくる人は二度と現れていないので、少々の遅刻にはピンと来ない。

いつの間にか、私は、時間にきっちりしている人と思われるようになった。方向音痴の迷子だから、かなり早めに余裕を持って移動するから、かなり早く目的地に着きそうになって、何となくどこかでそらめいていることが多い。

ずっと待っているからね。どんなに長くて、つまらない時間であっても、君を待っている。ひからびたお爺ちゃんになったとしても、待ち続けているよ。

明日も、あさっても。それが、私だからね。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年8月28日 (日)

もうすぐ9月

つい昨日、何だか、新しいことを始めようと思った。

ここのblogで毎日ぼやいていても仕方ないし。

9月1日にスタートしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月27日 (土)

唐木田→渋谷

危なかった。昨夜、遅くまでパソコンで遊んでいたから、眠いっちゃー眠いが、6時間は眠ったはずである。

土曜日だというのに今日は取材が入り、多摩市の唐木田までやってきた。無事に仕事を終えて、道すがらたい焼きを買って、小田急唐木田駅から「多摩急行」に飛び乗ったのだ。たい焼きの小倉とクリームを頬張って、かなり気持ちよかったのかもしれない。

今夜は、渋谷の7th floorでgeminiのライブがあり、多摩急行で下北沢で乗り換えれば、渋谷まですぐに着く。ところが、安心してしまったのだろうか、たい焼きの甘みにうっとりとして、ついウトウトしてしまったのだ。新百合ヶ丘に着く直前までは覚えている。

かなり長い夢を見ていたような気がする。

はっ!と気付くと、そこは表参道だった。
そうか、多摩急行は地下鉄千代田線直通なんだ。そのまま乗れば、あっという間にJR常磐線の柏まで行ってしまう。それは、あまりにも切ない。

慌てて飛び降りて、銀座線で渋谷に出た。

トップバッターで登場したアーティストさんが、「私の歌は、こんなゆっくりなんで、眠くなった方はいっちゃってください」と話した。よく眠ったのに、再び睡魔が襲う。トリのgeminiまでもつだろうか。

明日は、サウナで思い切り汗を流そう。きっと気持ち良いに違いない。

間違いないっ☆d1000050.jpg

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月25日 (木)

私は納豆が大好きだ

名古屋出身のくせに納豆が大好きである。いつの間に好きになったのか、自分でも分からない。中学校のときに修学旅行で日光・東京を訪れ、旅館の朝食に納豆が出ていたが、そのときが納豆との初遭遇である。が、納豆の正体が分からず、周りの生徒たちもキョトンとしていて、食べられなかった。大学時代、一人暮らしを始めて、生協に納豆が売っていたので、なぜか、買って、何となく食べた。別段抵抗感もなく、普通に食べた。家族で納豆が食べられるのは、私一人である。

大学の友達と大学生協の食堂でご飯を食べたとき、納豆にソースをかけているのを見て、驚愕した。私は、醤油派である。圧倒的多数は、そうであってほしい。納豆単独で食べることはあまりない。生卵は必須である。ネギを刻んでみるのも良い。納豆を箸でかき回し、すかさずネギを散らす。生卵をかき回し、納豆を放り込む。醤油を数滴たらし、豆の1つ1つがほぐれるまでかき回す。熱いご飯に豪快にかける。ここからは、あまりかき回さず、生卵の汁が奥深く染み渡らないうちに一気に口にかきこむ。はふはふとかきこむ。カラッとした海苔で生卵納豆かけごはんを包み込み、がぶりといくのもなお良い。

ご飯、わかめと豆腐のみそ汁、生卵、納豆、海苔・・・。朝ご飯は、これだけあれば、もう何もいらない。

分からないことがある。なぜ納豆が好きなのか。どこでこんな食べ方を覚えたのか。一生懸命振り返っても、記憶が呼び起こせない。

松屋や吉野家の朝定食には納豆定食がある。牛丼華やかかりし頃、吉野家で納豆定食と牛皿を頼む。私にとっては、300グラムのステーキよりも、豪華料理だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月24日 (水)

母の借金・父の借金

D1000046例によって、子どもの頃に両親から虐待を受けるなどトラウマを持っている方は、読まないで避けて通っていただいた方がよいかもしれない。

母から突然、「香港に行こう」と連絡があったのは、大学1年生のときだった。年末年始、両親と私は、何の脈略もなく香港に向かった。外国の航空会社のファーストクラスだった。あらかじめ書いておくが、私の家庭は裕福ではない。子どもの頃のおこづかいは、1か月100円だった。高校に入って若干余裕は出てきたが、働いても働いても、赤字が出るばかりの、典型的な零細事業者だった。成田・香港間、ファーストクラスならかなり高かっただろう。母に聞くと、「大丈夫。向こうで航空券を買えば安いから」と答えた。空港には、豪華ホテルまでのロールスロイスのお出迎えがあった。母は、ロールスロイスに乗り込むと、手慣れた調子でお手ふきを取り出した。「この間も来た」と言った。香港では、妙な日本人に連れられて、あちこちの高層マンションを紹介された。その中の1室に、私の両親の所有する部屋があり、イギリスの高級官僚が借りている、という話を聞いた。香港には、両親のペーパーカンパニーがあるらしい。まさに豪遊だった。

そんなバブリーな香港旅行は、2、3回続いた。母は、東京にもマンションを持っていると話してくれた。飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

世の中は、すでにバブルが崩壊し、地価は下がり続けていた。

そんな生活は長くは続かず、ある日、母から電話がかかってきた。「金を貸して欲しい」・・・・香港の豪遊の記憶が鮮明だっただけに、愕然とした。が、母は必死にその場を取り繕おうとして、「すぐにお金が入る予定だ」とか「たまたま足りないだけ」と言い訳した。私は、上京するために溜めた50万円を貸した。

私が上京して就職してから、我が家の家計はますます破綻してきた。ついに両親は、実家の家と土地を売り払い、名古屋にあったマンションに移り住んだ。が、それも長くは続かず、東京のマンションも、住んでいる家も何もかも売り払った。実家を売り払った頃から、母は、ネットビジネスの虜になっていた。突然東京に電話をかけてきて、「エステの機械を買うので、名義を貸して欲しい」と、訳の分からないことを言っていた。

ようやく私は、両親が狂っていることに気づいた。

4年ほど前、会社に突然、消費者金融会社から電話がかかってきた。驚いて実家に電話すると、家の電話は止められていた。消費者金融と言っても、メジャーなところではなく、どこの何者かも分からない東京のまちきんだった。

それから数ヶ月後、母が上京して、いきなり「あなたの名義でマンションを買って欲しい」と言い出した。めちゃめちゃな話だった。私の名義で両親の住むマンションを買い、支払いは両親がするという。めちゃくちゃだと分からない人がいたら、やばいぞ(笑) 消費者金融からの電話の件を話すと、「知らない」と言い張った。もちろん、やばい話は丁重に断った。いったい、マンションなど買わせて何をしようとしていたのか、不明である。

それから、さらに数ヶ月が過ぎた後、ある日、会社に、ドスの強い声の男から電話がかかった。明らかに闇金からの電話だった。最初は母名義の借金の話だった。そのうち1か月もたたないうちに、父名義の借金の話が出てきた。母からも電話があった。「弁護士に話はしてあるから」と、訳の分からない説明だけされて、一方的に切られた。闇金からは私の家にまで電話があったので、私は、家とケータイの電話番号を変えた。両親にも教えなかった。

2年ほど過ぎたある日、母から、ネットビジネスの勧誘の手紙が入った。お金が入ってくるという証拠だろうか、郵便貯金の通帳のコピーが同封してあった。が、コピーを見れば見るほど、怪しげな収入と怪しげな支出の痕跡があって、気持ち悪い、という印象以外は何もなかった。知り合いに手紙を見せてみた。「大変失礼なことかもしれませんが、お母さん、病気か何かですか」・・・・・そうかもしれないと思った。

両親は、今も生きているらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月23日 (火)

DVD『堀下さゆりツアー~君と笑った~ファイナル』(BabeStar)

D10000435月14日、渋谷duoで行われた堀下さゆりちゃんのワンマンライブを、臨場感そのままに収録したライブDVDである。発売日は、明日8月24日なのだが、一足早く、某大型CDショップで入手してきた。

堀下さゆりちゃんは、『Piano&Woman Episode03』の11人のアーティストの中では、一番の出世頭である。もちろん、ライブDVDを発売したのも、一番手である。一番有名なのは、NHK「みんなのうた」で流れた「カゼノトオリミチ」。スタジオジブリのスタッフが手がけたアニメに併せて流れた唄に聞き覚えのある人は少なくないだろう。

彼女の歌に最初に出会ったのは、2004年1月、『Piano&Woman Episode03』のインストアイベント。当時からひときわ輝いていたので、おそらく一番メジャーデビューに近い人だと思っていたら、案の定、ある日、天下のNHKに舞い降りてきた。2005年2月に、ビクターエンタテイメント系列のレーベルBabeStarから10曲入りフルアルバム『カゼノトオリミチ』でメジャーデビューした。が、彼女の原点に触れるなら、やはり、その1年前に発売した『プライベート~The Piano Album~』の11曲を聴くべきだろう。堀下ちゃんが、「カゼノトオリミチ」をはじめとして、ひたすら11曲、ピアノで弾き語り続ける。

彼女の歌は、ちょっと頑張りすぎた夜に心地よい。頑張りすぎて逃げてしまいたいときに、ちょっと脇道にそれて道草して、ゆっくりそらめきたくなる。この社会では、いつもきれいなままでいるわけにもいかないし、いつものんびりしているわけにもいかない。でも、少しだけ逃避して、自分を振り返ってみて、頑張りすぎた自分をほめてあげて、慰めてあげて、また再び元の道を歩き始める。そんなときに、ぜひ聞きたい。「カゼノトオリミチ」は、もう1年以上聴き続けている。これからもきっと、自分の支えになる歌だと思っている。

DVDの初回盤には、写真集ときままCDがついてくる。きままCDは、堀下ちゃんが、ひたすら、しゃべる、しゃべる、しゃべる、しゃべる、しゃべる、しゃべる、しゃべる・・・・(笑)

メジャーデビュー後は、全国を走り回っている。でも、たまに四谷天窓のような小さなライブハウスにも戻ってきて、歌ってくれる。堀下ちゃんには、小さなハコが似合う。超有名になっても、たまに戻ってきてほしい。

・・・・なんて、今夜は、やけにblogっぽいblogである。

会社で、堀下ちゃんと同じ歳の後輩に、堀下ちゃんの写真集を見せてみた。

「同じ歳ですか?ふけてますね、あたしのほうが可愛いですよ。るんっ」

・・・・・・まったく、いまどきの娘は。。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月22日 (月)

母の暴力・父の暴力

D1000042今夜は少々きつい話になる。幼少期に両親の虐待を受けていたような方は、読むのを避けてほしい。

小学校のとき、朝ごはんを食べていると、突然母が怒りながら居間に入ってきた。どこでどうしてなのか、朝っぱらから友達の母親に会って、「学年全員に絵を描く宿題が出ている」というデマを聞いてきたらしいのだ。母の激怒ぶりに恐怖を感じた。髪の毛を振り乱して、今にも襲いかかりそうだった。「絵は描いたのか?」と聞かれ、首を横に振った。母は、私を捕まえると、ひたすら蹴った。おそらく、30分以上にわたったと思う。父も祖父も祖母も黙ってそれを見ていた。なんせ、宿題など出た覚えはない。その日学校に出て分かったことだが、その友達のクラス担任は全員に絵を提出させようとして、「宿題」にしてしまったのだ。が、他のクラスでは宿題ではなくて、希望者だけが提出するものだった。

母の猛攻に私は耐えきれず、泣きながら絵の具を出して、絵を描いた。もちろん、クラスで絵を描いて登校したのは、私一人だった。帰宅して母に抗議したが、母は分かったような分からなかったような、曖昧な微笑みを浮かべているだけだった。

こんなこともあった。同様に、小学校のとき、私は近所の子どもにいじめられて、泣きながら家に帰った。母は、泣いている私を見ると、「誰に泣かされたのか」と問いつめた。そこまではよい。黙って泣いている私を見て、母は、再び蹴り始めた。「誰にやられたのか言え!」と、おそらく30分以上にわたり、蹴り続けた。私は、ただただ泣きながら転がり続けた。なぜか、母に向かって、「ごめんなさい」と言い続けた。私は、ついにいじめた子どもの名前を口にした。

が、である。母は、名前を聞くと、キョトンとして、「恥ずかしくて学校にも言えない」と、私を放置して去った。私はぼう然として、その場に転がったままだった。

こういう突然の暴力は、子どものときに何回か経験した。暴力を受ける筋合いは、ほとんどなかった。怒っている意味さえ、分からなかった。暴力のあとは、ケロッとしていた。何事もなかったように日常生活が続いた。

父にも、似たような暴力癖があった。突然、意味もなくキレる人だった。

私の両親の怪奇な行動は、これだけではない。それはまた、次の機会に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月21日 (日)

まもなく3か月

D1000040このblogを始めてから、まもなく3か月が過ぎようとしている。時折、帰宅が遅くなって、更新する時間には日付が変わっていることもあったが、ほぼ毎日更新を続けている。私の友達、仲良くしてくれているアーティストの皆様、偶然通りかかってくれた方々、この場をお借りしてお礼申し上げたい。今日までの累計アクセス数は1882である。1日平均20弱のアクセスがあったことになる。宣伝しているわけではないが、こうして無作為につながってくれるのがblogのおもしろさかもしれない。

私が、blogを始めるときに考えていたのは、日記よりももう少し読み応えのあるコラムっぽいものだ。私の日常生活をネットに垂れ流しても、何の意味もないと思ったし、一応文書を書くことで食っている人間としては、やはり、文書を読んでもらうサイトにしたかった。ライブ好きの人間ではあるが、巷に見かけるありきたりなライブレポなるものは書きたくなかった。そんなのは、自分でなくても、誰かが書くものだから。それに、ネットでいくつかライブレポを書き連ねているサイトを読んでみたが、アーティストが何を歌ったか以上には、特に参考にもならなかった。音楽は感情に訴えるものなのに、サイトの管理人の喜怒哀楽があまり見えなくて、聴き手がその音楽をどう受け止めたのかが読み取れなかった。

おそらく、自分も、通うライブを全部レポートにまとめようとすると、似たようなものになると思う。だが、考えてみれば、私は素人である。歌っている人間以上には、音楽には精通していない。blogに延々と批評を連ねてみても、不特定多数の読み手には、大した参考にはならない気がした。そこで、私は、ライブという現場でアーティストの音楽や言葉やパフォーマンスをどう受け止めて、どう感じたのか、興味を持った結果、その音楽とどう関わっているのかを書こうと思ったのだ。

その試みが成功しているかどうかは、まだ分からない。私は、通い詰めている方と比べると、少々ライブ通いが足りないようで、ネタの大半は音楽以外の話題となってしまっている。まあ、これが限度かなと思っている。

私なりのそらめく毎日をこれからも、つれづれなるままに、綴っていこうと思う。

ところで、このblogの有効活用法として、お奨めしたいのが、夏休みの宿題対策。このblogは必ずその日の空の写真をアップしている。文章の内容とはいっさい関係ない。関東近辺の空を写しているから、このblogをさかのぼれば、たまに抜けている日もあるが、ほぼ毎日の天気を確認することができる。もう、気象庁へ問い合わせる必要はない(笑)。カツオくんに宿題の手伝いをさせられている全国のマスオさんに、ぜひ活用してもらいたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

しらふでカラオケ

D1000038おそらく、2人とも壊れていた。間違いない。1人は、奥様らしく気丈に振る舞っていたが、そのハイテンションぶりは世俗を超越していた。もう1人は、うわごとのようにaikoの「カブトムシ」を口ずさんでいた。2人とも、私とほぼ同じ歳である。

大学時代を共に過ごした仲ではあるが、めったに連絡は取らない。が、前述の奥様が東京に出てきているので、久しぶりに仲間たちが再会したのである。男2人に女2人だったが、男1人は千葉まで終電が間に合わないので、途中で撤収した。残されたのは、壊れかけの2人の女性と、しらふで低テンションの私である。たった1時間だったが、みっちり歌った。奥様は、ご機嫌な様子でJRの改札口へと消えた。もう1人は、自宅が電車ですぐ近くだというのに、なぜかタクシーに乗ってお帰りになった。私は、歌いすぎて少々傷んだかもしれない喉を気にしながら、最終間近の京王電車に乗った。カラオケなんて3年ぶりくらいだと思う。しらふで歌うのは、生まれて初めてだ。

そもそも、私にカラオケなんて娯楽を伝授したのは、大学時代の女友達である。当時はカラオケボックスが出来たてで、今ほど爆発的には流行していなかった。自慢じゃないが、私の中学校のときの音楽の成績は2か3である。まさか、マイク片手に歌うことになるとは、思いもしなかった。ひどかったと思う。つまらないフォークソングしか歌わなかった。私個人の第1次カラオケブームである。よく友達もつきあってくれたと思う。

社会人となって、しばらくカラオケからは遠ざかっていたが、上司に誘われて歌いに行くことはあった。シナリオセンターのゼミの仲間と歌うこともあった。が、あまり歌うことは多くなかった。5年ほど前、カラオケ好きの後輩が入社して、事態は一変した。私個人の第2次カラオケブームである。新しい歌を次々と覚えた。その後輩につきあわされて、朝まで歌うこと数知れず。三十路を越えたというのに、よくも体力が持ったものである。が、その後輩が結婚退職してから、すっかりご無沙汰していた。

何より、私が酒を飲まなくなったのは、カラオケに縁がなくなった最大の要因である。酔っぱらっているから、マイク片手に浸ることもできる。しらふで歌うなんて…。

今夜のセットリストである(笑)

「世界に一つだけの花」(SMAP)

「正夢」(スピッツ)

「何度でも」(Dreams come true)

「カブトムシ」(aiko)

「えりあし」(aiko)

年末までにaikoの「花火」をマスターするよう宿題をいただいた。

久しぶりに再会して、それなりに安心した。それは、おそらく、昔のままの自分の位置が確認できたからだろう。相変わらず私は私だし、相変わらず彼女たちは彼女たちだ。お互いの距離も昔のままだった。ただ、変わったのは、大学時代、冴えないフォークソングばかり歌っていた私が、今はaikoやスピッツを歌っている。音楽との関わり方が、ずいぶん変化したなと思う。

帰ったら、借りたままの「ホテルビーナス」がそのままになっているのに気づいた。朝までに返さないと、延滞料金を取られる。今夜こそ泣かずにエンディングを観たい。・・・何だか、そんなことを考えている。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年8月20日 (土)

おやすみなさい

D1000036今夜、仕事を猛然と片づけると、四谷天窓.comfortへと向かった。トップバッターは、ピアノ弾き語りの日本松ひとみさん。ぽかーんとしたMCと、力強い歌声とのギャップが激しい。コテコテの関西弁が、これまた板に付いている。アーティストとしてはまだまだヨチヨチ歩きで、未完の大器という感じかな。これからどんどん成長していくのではないかという、期待を感じさせる人だった。

日本松ひとみさんが終わると、すぐに同じビルの地下にある四谷fourvalleyへ。ここは、松岡ヨシミさん率いるバンドfriccaのライブ。せつなくもの悲しい松岡サウンドが、バンド編成で熱く弾けていた。

1週間、とにかく忙しかった。何年ぶりかで仕事をした気分だ。今夜は、これにて。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月18日 (木)

東海道本線の全駅を暗記している男

D100003337年間も生きていると、本当にたくさんの友達に会う。アホも天才もいる。善人も悪人もいる。「友達」とあえて書いたのは、blogの好感度を下げたくないからである。

かつて、私には、実家のある名古屋に、東海道本線の全駅を暗記している友達がいた。暗記するのは自由である。問題なのは、電話をかけてくるたび、話題がなくなると、東海道本線の全駅を東京から順番に電話口で叫び始めることだ。なんせ、神戸まで延々と続くのだから、一度始まると、かなりやっかいだ。私もかなり、お人好しだ。終点の神戸まで、ずーっと各駅停車の旅を延々と黙って聞き続ける。いや、聞き続けるというより、彼はかなり大きな声で話すから、電話を机に放置しておけば、部屋で好き勝手に何をしていても、彼は勝手にしゃべり続けてくれる。

さすがに、彼も感づいていたかもしれない。ある日、静岡を出たあたりで、急に止まり、「あれ?次って何だっけ?」と忘れたふりを始めたのだ。私は、小さな音でテレビを楽しんでいたので、この急な変化球には正直焦った。「何だっけ」と言われても、私は静岡の次が何駅かなど、知るはずもない。「さあ、知らない」と答えると、再び受話器を置いて、テレビに視線を戻した。彼もかなり、上手である。静岡の次など分かるはずもない。すると、彼は、私が知らないはずのない駅を、忘れたふりをした。「あれ?笠寺の次は何だっけ?」・・・知っている。それは、私の地元、熱田である。が、私にも意地がある。「知らない」と言い張った。彼は、「そうか、知らないのか」と、このときばかりは、かなりショックを受けていた。いや、ショックを受けるような筋合いではないが。

彼は、不思議なほど東京にまめに通い詰めていた。理由を聞くと、これが驚きだった。どうやら、Hビデオを買いあさっていたようなのだ。どうして、東京で? いや、確かに東京のほうが品揃えはいいかもしれないが、そうまでしてHビデオを買いあさらなければならないのは、どうしてなのだろうか。謎は深まるばかりだった。

もっと驚いたことがあった。彼は、東京に来ると、私が住んでいた部屋の近くのファミレスで朝まで私を待っていたことがあったというのだ。もちろん、彼が来ることも知らなかったし、彼が来たことも電話すらなかった。私は、夜になれば部屋に帰る。部屋まで来れば、私はいる。が、その日、私の部屋には誰も来なかった。彼は、誰を待っていたのだろうか?

ここまで読んだ読者諸君は、もう、私と同じことを感じているはずだ。

そう。気持ち悪いのだ。

彼は、毎年の年賀状だけは欠かさなかった。返信したことは一度もない。5年ほど前、とある理由で電話番号を変えることになった。彼には電話番号を教えなかった。かなり急なことだったし、忙しくて、結構電話番号を教え忘れた友達は多いのだが、住所も変わっていないし、会社も変わっていないから、まあ、つながる人は自然につながるものだ。彼は、それ以来、連絡が途絶えている。その年の年賀状は、ついに来なかった。私と彼の奇妙な関係は、こうして途絶えた。

・・・・いや、もしかすると、彼は今日も、近所のファミレスで待っているかもしれない。私はいまだに東海道本線の全駅を暗記できていない。生涯できないと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月17日 (水)

一期一会

D1000031人と人の出会いは、なんてロマンティックなのだろう。私たちが毎日、会社で会ったり、学校で会ったり、電車で会ったりしている人たちは、会って当たり前の人たちだけれど、道端でたまたますれ違った人たちは、もう二度と、再会することがない。一期一会だ。これって、すごいと思わないか。人と人は、毎日本当にたくさんの出会いを積み重ねて、お互いも知らないまますれ違い、それぞれの人生へ戻っていく。新宿でも渋谷でも調布でも、みんな、数え切れないくらいの一期一会が待っている。そんな人と人とのつながりがたくさんもつれて、社会という集団ができる。

どこかで私の支払った1万円札を、どこかの銀行で引き落としている人がいるかもしれない。お金には、人間の臭いがする。憎悪や怒りや喜びや悲しみや、いろんな感情の臭いが渦巻いている。あの臭いは、誰にも偽造できない。血の臭いもする。汗の臭いもする。

明日、どこかですれ違う、あの人は、もしかすると10年前、私が支払った500円玉を持って、駅売りの新聞を買うかもしれない。売店のおばちゃんがおつりとして支払った100円玉と10円玉は、もしかすると、小泉首相が缶ビールを買ったときに支払ったものなのかもしれない。人と人は、つながっている。いろんな感情と偶然がもつれあって、人は誰かとつながっている。

今夜は、たくさん考えたので、脳みそが疲れた。

眠い…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月16日 (火)

どんな言葉で検索してきてくれましたか?

D1000030今夜は、少し怖い話をしよう。ホラーとか恐怖映画とか百物語とか苦手な人は、避けた方がいいかもしれない。

私が、初めてホームページを制作して公開したのは、1997年の12月のことになる。当時、パソコンを買ったばかりで、ホームページ作成ソフトを使って、ベタベタと画像を貼り付けるだけのサイトだった。内容は盛りだくさんだったが、当時アナログ回線が当たり前の時代には重すぎる画像をふんだんに使用し、ブラウザやPCのスペックによっては、ページが表示されないという、何ともいい加減なサイトだった。それでも、8年間で、2万6千を超えるアクセスがあった。最初は、アクセスカウンタがいくつか回っているだけで喜んだものだが、そのうち、どのページから来たのか、どんなブラウザを使っているのか、IPアドレスは何か、どんな言葉で検索をしたのかなど、アクセス情報を知りたくなってきた。そこで、いろいろなアクセス解析サービスを利用した。

おもしろいもので、アクセスカウンタが数字を出していても、それが私のサイトを目指して来たという保証はなく、むしろ、偶然来てしまった人の方が多いことに気づいた。サイトの趣旨とは何の関係もないキーワードで検索されているのだ。訳の分からない言葉であったり、まったく関係のない企業名だったり。こんな言葉がどこにあったっけということもある。最初のうちはおもしろがって観ていたのだが、ある日、観てはいけないものを観ているということに気づいた。

「○○××、殺してやる」

某巨大検索サイトからだった。○○××は、おそらく実名であろう、日本人のフルネームである。検索キーワードに、ある日、こんな言葉が紛れ込んでいた。そもそも、この方の名前など、うちのサイトにはないはずだ。見たことのない名前だし。この人は、何を知りたくて、サイトを探していたのだろうか。私のサイトで、何か見つかったのだろうか。私は、サイトを見ていただければ分かるだろうが、文字が多いサイトだから、いくつかの単語を組み合わせると、検索できてしまうのかもしれない。「殺して」という言葉と「やる」という言葉が混ざったのか、それとも・・・。仮にそうだとしても、個人名までは検索できるだろうか。名前と苗字が別にあったのだろうか。

私は、アクセス解析をやめた。

実は、ココログを使っている方はおわかりだろうが、このblogは制作者が望まなくても、自動的にアクセス解析をしてくれている。なので、どんな単語で検索してきてくれたのか分かるようになっている。時折、どうしてこんな言葉でうちのblogを見つけられたのだろうと不思議に思うことがある。

インターネットには、人の憎悪も恐怖も、無防備に彷徨っている。それは、テキストという形をしていて、誰の手元に噛みつくのか、予想もできない。あなたは、どんな言葉でつながっているのだろうか。「殺してやる」ってのは、勘弁してほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月15日 (月)

そして、60年目の夏

D1000027私が初めて「戦争」の記憶に触れたのは、小学生の低学年くらいだったと思う。祖父は、何がきっかけなのか忘れたけれど、ある日、祖父の部屋で私を前に突然、戦争の話を始めた。

私の祖父は、戦時中は学徒動員で、名古屋にある飛行機工場で働いていたという。戦況が悪化し、本土の大都市が空襲を受けるようになり、名古屋も例外ではなく、B29の爆撃を受けた。祖父の働く飛行機工場は絶好の標的だっただろう。何度も米軍の爆撃を受けて、祖父たちは爆雷を避けながら防空壕へと逃げたという。その日も、工場で働いていると、空襲警報が鳴り、「空襲警報発令」と何度もアナウンスがあり、祖父は必死に防空壕へと走った。上空には、独特の轟音をとどろかせてB29が飛んでいて、工場の周りにも爆弾が降った。途中、祖父の友達が倒れているのを発見して、抱き起こしたが、ひどい傷だった。祖父は、「がんばれ」と励ましたが、上空からは次々と爆弾が落とされていた。このままでは自分が死ぬ。祖父は、友達をそこに残したまま、「必ず帰ってくるからな」と言い残して、防空壕へ走った。友達は、「助けてくれ」と叫んでいた。走る祖父の背後で、ついさっきまで友達が倒れていた場所に爆雷がとどろいた。

この話をしているときの祖父は、静かで淡々と語っていた。涙を見せる様子はなかったが、遠い記憶を呼び起こすように、遠い目をしていた。

祖父がそう語ったのか、私が勝手にそう悟ったのか、今は覚えがない。そのとき、私は、「戦争はしてはならない」と思った。それは、今もずっと続いている。祖父は平和主義者ではない。右翼でも左翼でもない。が、祖父の目には、戦争の悲劇がしっかりと刻み込まれていて、おそらく、その記憶を消したくても、焼き付けられた記憶が消えることはなかったのだろうと思う。

祖父は、私の大学時代、ある日突然、実家を飛び出して、それ以来、消息は分からない。生きているのか、死んでいるのか。

今日、8月15日。日本が忘れたくても忘れられない、60年目の夏がやってきた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月14日 (日)

夏休み最後、不思議な日

今夜は、一足早かった夏休み最後の夜。夕方までだらーっと眠っていて、西日がまぶしくなった頃、四谷天窓へと出掛けた。
今夜のライブは、拝郷メイコさんの企画「天窓より月明り」。会場は、この日出演する大森洋平さんの女性ファンでぎっしり。私は、会場の端っこの最前列に邪魔にならぬようそおーっと座った。が、やはり居心地はいまひとつ。天窓は私のホームグランドのはずなのに、「洋平くん」ファンのオーラに押されていた。
トップバッターは拝郷メイコさん。久々のメイコさんのライブだった。
メイコさんのライブが終わり、私が「洋平くん」の間近にいても意味ないと思い、いったん後ろに移動して、カウンターで飲み物を頼むと「洋平くん」の登場を待った。すると、後ろから恐い顔した「洋平くん」ファンに、「そこにいると見えないんですけど」と突っ込まれた。が、狭い会場は人でぎっしりである。見回してもトイレの入口の横くらいしか立つ位置がなかった。
どうにも居場所に困った私は、仕方なく「洋平くん」(笑)のライブを聴かずに天窓をあとにした。

さて、本題はここからである。四谷から新宿までJRで移動して、西口の改札口を出たところで、思わぬ人に出くわした。大学時代の女友達2人。片方は数年ぶり、もう片方は、う〜ん、10年?…、いや、もっと…。
しかも、その2人とも来週土曜日、新宿で飲み会をやる予定だったのだ。思わず私が日程を勘違いしていて、彼女達を待たせているかと思い、焦った。が、いくら方向音痴の私でもそこまでアホではない。
この奇跡のような再会にしばし呆然とした。

何だかよくわからないが、「洋平くん」とハイヤーパワーに感謝しよう(笑)

ケータイによる投稿は2度目になる。いまひとつ手応えを感じない。d1000026.jpg

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『大切な約束~How tears fall~』Hikari

D100002512日の夜、相模大野でusuのライブがあった。ライブ終了後、すでに終電が出た後だったので、そのまま駅の上にあるホテルに宿泊した。翌朝、小田急で江ノ島に出て、散策をして、夕方、下北沢へ。谷口深雪ちゃんの企画が下北沢440であり、ライブを堪能してようやく帰宅した。

ここに1冊の本がある。スターツ出版という耳慣れない出版社から発行された『大切な約束~How tears fall~』。著者はHikari。内容は、13歳の少女が母の応援と励ましで、歌手を目指して上京し、夢を叶えるけれど、そのデビュー直前、母は亡くなってしまうという哀しいストーリー。もうご存知の方が多いと思うが、著者は川嶋あいさん、物語も実話だ。

私が初めて彼女を見かけたのは、渋谷駅前だったと思う。セーラー服でキーボードの弾き語り。たった1度だった。2度目は、2年前、本屋で「16歳の白い地図」(学研)という本と出会った。その頃には、彼女の歌声はテレビのブラウン管から聞こえてくるようになった。I wishというユニット。ほとんどの人が、それで初めて知ったのだと思う。でも、私自身は、I wishというより、川嶋あいは、川嶋あいというイメージしかない。おそらく、路上でキーボードを弾き語るというスタイルを最初に目にした人だ。「そらめく.com」で紹介しているアーティストたちと出会うずっと前のことである。

一番のお気に入りは、やはり、「天使たちのメロディー」。東京でたった1人で夢を追いかけている人間にとって、どれだけ励みになったことか。私は彼女より17年も長く生きているのに、彼女の生い立ちや夢を追う軌跡にどれだけ励まされたことか。傷ついたり、凹んだときに、どれだけ支えになったことか。まあ、こんなblogを読んでいないだろうが、あなたの歌声は、酔いどれて自暴自棄に生きていた当時の私にとって、少しは人間を信じてみようと思わせる不思議な力があったのだよ。もう一度、残された力で夢を追いかけてみようと思わせたのは、あなたの歌や本の言葉がきっかけだった。

この歌が入っているマキシシングルの最後の歌、「…ありがとう...」。その当時、この歌がおそらく母親に向けたメッセージであることは想像できたのだけれど、まさか、亡くなった母親に向けられていたとは…。

私は、25歳のとき夢を抱いて東京に出てきた。食っていくために仕方なく記者の仕事を始めて、いつの間にか夢から遠ざかっていた。両親は、私が何を夢見ているのかさえ知らなかった。知らせることもできないまま、借金取りに追われて、私の前から姿を消した。夢を共有することさえ、もうできないかもしれない。

あらためて、彼女の生い立ちを語った本を読んで、私は、私自身を振り返ってみた。今の私は、もう方向音痴で、行く先々、てんで、でたらめだ。あいさんのような、大切な人と共有できる夢を持っているわけではない。私の夢は、私しか抱えていない、孤独な夢だ。私は、この大切な夢とどう向き合えばいいのだろうか。私が上京して、もう11年になる。私はまだ、燃え尽きていない。空っぽで方向音痴で迷子の、この身体の中で、くすぶって、消えるに消えられずにもがいている。

『大切な約束』は、12日に相模大野駅のミロードで2冊買った。1冊は、usuの誕生日にプレゼントにした。2冊目は、私の手元にある。

何度も何度も読み返したあと、私は、ここ数ヶ月、連絡を取っていなかった大切な人にメールで連絡をしてみた。彼女も、相変わらず、もがきながら生きていた。「会いたい」と言おうとして、ふと思いとどまった。「おやすみ」のメールを送ったあと、「ありがとう」と書かなかったのを思い出して、頭をかきむしって後悔した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月13日 (土)

江ノ島神社

この際、情報公開しようと思う。神様も、無視するわけには行かないだろう。
「大吉」…有言実行。地球の裏側まで全人類が見守っている。d1000022.jpg

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月11日 (木)

大掃除

D1000017夏休みもすでに後半戦に入り、相変わらず私はちまちまと大掃除をしている。とにかく、掃除が苦手だ。整理ができない。

もう会社を辞めてしまったが、私の会社の先輩に、やたらと整理好きの人がいた。毎晩酒を飲んで、私を酒を飲みに連れて行ってくれると、気前よくおごってくれた。仕事はできなかった。が、おもしろいくらい、上司には評価されていた。基本的に中身のない人だった。が、おもしろいくらい、愛されている人だった。本当に愛されていたのかどうか、今ひとつ確信できないのだが。ただ、たった一度でも彼と仕事を組んだ人は、ほとんど彼に絶望していた。典型的なアルコール依存症だった。

そんな彼が、ある日突然、2000万円も使ってワンルームマンションを買ってしまった。信じられない暴挙である。当時、彼は40歳そこそこだったろうか。もちろん、彼は独身である。別に、同棲する彼女がいたわけでもないし、住まわせる愛人がいたわけでもない。ワンルームマンションを終の棲家にしてどうする、そんなツッコミは彼には通じなかった。なんせ、彼は、典型的なアルコール依存症だった。

私はついに一度も彼の部屋には行かなかった。が、彼の部屋に潜入した同僚から聞いた情報によると、彼の部屋には、読みもしない雑誌が延々と積み重ねられていて、古本の山に囲まれるように彼は眠っていたという。恐ろしいほど整理整頓された部屋には、彼のいったい何があったのだろうか。それが、彼の生き様だったのだろうか。彼は、そのうち何十万円もする絵画を購入したあげく、やはり、飾りもしないで部屋の片隅に整頓した。口もきかない、役に立たない、彼の「仲間」は、彼の生活を黙って見下ろしていた。

その後、ある理由で、彼は会社を辞めた。

酒をやめてから、ほとんど掃除をしていなかったことにふと気づく。乱雑に積み重ねられたゴミの山から、1年8か月分の歴史が出てきた。徹底的に処分しようと思う。少しホッとすることもある。ワンルームマンションを購入した彼の部屋と比べると、おそらく私の部屋はかなり人間臭いと思う。少なくとも、酒の瓶・缶は出てこない。生きてきた証がある。

あと何年かすれば、私も、ワンルームマンションを買った彼と同じ年齢に追いつく。私も、終の棲家がほしい。最近、そんなことを思うようになった。40歳は、節目なのだろうか。

ただし、私は、絶対に、ワンルームマンションは買わない。それだけは、確信ができる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月10日 (水)

LOVE LETTERS

D1000016夜、渋谷のPARCO劇場の公演「LOVE LETTERS」を観てきた。演じるのは、バレエダンサーの西島千博さんと、シノラーこと篠原ともえさん。私自身、芝居を観るのは、10年ぶりくらいになる。実は、篠原ともえさんはデビュー当時から密かに好きだったのだが(笑)、あのハチャメチャな芸風というか動作というか振る舞いというか、あれは、おそらく彼女なりの照れ隠しのようなものだと感じていて、もしも自分が演出家とかプロデューサーになったなら、彼女を何もない舞台にジッと座らせて、あの「照れ隠し」なしに淡々とした演技をさせてみたいと思っていたのだ。今回の舞台は、まさにそのまま実現するわけで、珍しく前売り券を速攻で買ったのだった。

が、そんな期待感は、今日、舞台が始まる直前までのことで、舞台が始まり、2人が舞台中央の椅子に腰掛けて、すぐに、この舞台と私との出会いが、どこかハイヤーパワーに支配されたものだということに気づいた。

「LOVE LETTERS」は、幼なじみのアンディとメリッサがお互いに出した手紙を読み合うだけというシンプルな舞台。ネタバレになるのを避けるため、ほんのさわりのみとするが、アンディは海軍を経て上院議員にまで登りつめる幸せな人生をおくるのに対して、メリッサは父親がアルコール依存症で、彼女自身も依存症から精神的な破綻をきたしていく。お互いに意識しあい、求め合いながら、すれ違い続ける2人。その顛末は、とても哀しいものだったが、人生にとって最も大切な人を思い出させてくれる。アンディ演ずる西島さんは、途中何度も噛んでしまい、「おや?」と思わせる場面もあったが、クライマックスは力が籠もっていて、その言葉の1つ1つに共感し、同じ男性として涙なしには観ていられなかった。篠原さんは、破天荒なメリッサにしては少しおしとやか過ぎた気もするが、天真爛漫なメリッサを好演していたと思う。

私の愛した人は、今、幸せにしているのだろうか。クライマックスのアンディの手紙を聴いていたら、私にとって大切な人たちの顔が思い浮かんだ。私にとって無駄だったり邪魔だったりした人は、1人もいない。今も愛しているし、これからも忘れることはないと思う。せめて、幸せでいてほしい。あの頃の私は、愛することと慈悲を混同していた。牧師は恋人にはなれない。仮に彼女に依存症のような問題があるなら、それは彼女自身が「底」を見て、感じることなしには回復の道は開けないのだ。

また、もう一度、「LOVE LETTERS」を観たいと思った。そのときはきっと、独りぼっちではなくて、大切な恋人を誘おうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年8月 9日 (火)

長崎から60年目の夏

D1000014私が生まれて初めて一人旅をしたのは、中学1年生の夏休みだった。名古屋から新幹線に乗り、新大阪へ。新大阪から寝台特急あかつきのB寝台車に乗り、長崎へと向かった。本当は北海道に行きたかったのだが、たまたま旅立つ日には台風が関東地方を襲っていて、仕方なく南へ進路をとったのだ。なぜ長崎かと言えば、やはりそれは、原爆の被爆地だったからだ。

私の家は、家族が平和運動をやっていたこともないし、学校も特に平和教育を熱心にしていたわけではない。なのに、この夏、長崎へ行き、その翌年には広島を訪れているのだから、私と広島・長崎をつなげるものは運命的だったとも言える。もしかすると、実物を見ないと納得できないという性格は、この頃から顕著になっていて、こうして記者をやっている源流のようなものもここにあった気がする。

もう、15年も前のことになる。暑い長崎駅の改札口を抜けて、私は路面電車に乗り、原爆落下中心地へと向かった。当時、原爆資料館はまだ古かったが、残念ながら、その日は月曜日だったので休館日だった。平和公園を歩いて、平和祈念像を見上げた。幼い私には、像の意味はあまり理解できなかったが、一瞬で7万人を殺した原爆がこの頭の上で炸裂したかと思うと、身震いした。

あれ以来、長崎へは何度も足を運んだ。私のお気に入りの街である。小浜・雲仙の温泉、ハウステンボス、異国情緒漂う街並み・・・。

長崎は、第2次世界大戦に終止符を打った被爆の地である。広島と比べて影が薄い気もするが、今この一瞬の平和は、長崎からつながっていると思う。あれから60年間、核兵器は二度と戦争で炸裂することはなかった。

私たちの「今」は、ここから始まったのだ。

伊藤一長長崎市長の「長崎平和宣言」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月 8日 (月)

断酒の動機づけは難しい

D1000011私がアルコールをきっぱりとやめてから、もう1年9か月が過ぎた。こんな風にblogなんて書いていると、きっとこの人は頑張ってお酒をやめようと努力していると思われるかもしれないが、私自身はとても意志が弱くて、気まぐれな存在だ。断酒会にも通わず、酒を断ち続けているのは、単に性格が極端にマメなだけで、何のきっかけで再びまた酒を飲み始めるのか、予断を許さない状態なのだ。

家族がいて、自身のアルコール問題によって家庭が崩壊したり、家族を傷つけたりした場合は、アルコールに伴う具体的な問題点が事実で明らかにされる。アルコール依存症の人は、こういう現実を目の前にしても、やはり自分はアル中ではないと、否認を続けるわけで、もしかすると、酒を飲み続けている人たちのほうが意志が強いのではないかと思うことがある。それに比べれば、私なんて、酒を飲みたくても、飲む勇気さえない。

私には、酒で壊す家族もない。アルコールを飲み続けて、連続飲酒発作で部屋に閉じこもっても、おそらく、かなり長い期間、発見すらされないままだろう。思うままに、アルコールにおぼれることができる。いや、例え、発作とまでいかなくても、普通に酒を飲みながら生活を続けることくらいできるじゃないか・・・と、ふと、思うことがあるのだ。

どうしてこうなるかというと、一番の理由は、私が孤独すぎる、ということがある。断酒生活に最も大きな障害となるのは、おそらく、孤独だと思う。

もう一つ言えることは、私は、底を見ていない、ということがある。私は、家族を崩壊させたこともないし、連続飲酒発作で入院したこともない。アルコール問題については、落ちるところまで落ちなかったのだ。

そう考えてくると、私が酒を飲まずに生きているのは、酒を飲まない努力をしているというより、むしろ、酒をやめるきっかけとなった時点で立ち止まったまま、今もまだ動けないでそのままでいるだけなのだと思う。足がすくんで前に進めないでいるだけなのだ。

私は冷静に自分の心の中にぽっかり開いた、真っ黒で奥深い穴ぼこを覗くと、とても怖くて、お酒でその穴を埋めようなどとは思えない。今度再び飲み始めたら、おそらく、きっと、死ぬまで飲んでしまうような気がする。古井戸の入口のようにポッカリと空いた穴の奥のほうには、おそらく誰にもコントロールできない憎しみや悲しみや怒りが渦巻いているだろうし、それをアルコールで埋めようとすれば、たぶん、とてつもない量のアルコールが必要になるだろう。そのサバイバルなやけ酒は、きっと命がけの逃避行になるに違いない。

こんな暑苦しい夜は、おそらく冷たい生ビールをゴクゴクと飲んだら、気持ちよいに決まっている。そんな快感をイヤと言うほど味わっている私は、そんなことを思いつくたびに、自分の心の穴ぼこをそおーっと覗いてみる。足がすくむ。すぐにトラウマがよみがえる。映画の幽霊のように、アルコールを欲する私自身が井戸の奥から私を引きずり込もうとする。

私は、確かに酒を断った。でも、私の奥底には、まだ解決されていない大きな穴ぼこが眠っている。回復の道は、まだ始まったばかりなのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月 7日 (日)

ダンス

D1000010今夜、木下直子ちゃんのライブに四谷天窓に行き、その帰りでの出来事。私は、突然、カツ丼が食べたくなり、お弁当とお総菜が買える、某弁当屋さんに入った。普段なら夜はたくさんの客が出入りする店なのだが、夏休みということもあるし、日曜日とあって、客はまばらだった。私は、とりあえずお総菜コーナーをウロウロしてみたが、どれも残り物ばかりだったので、お弁当を頼みにカウンターに向かった。

カウンターの前には、小太りのメガネの男が立っていた。かなりカウンターに接近して、カウンターの奥を向いていた。カツ丼を頼もうとして、私は、ギョッとして目を疑った。

彼が、踊っていたのだ。

店には、テンポの良いポップ調のBGMが流れていた。彼は、その曲に合わせるでもなく、身体を左右に揺らしていた。見ようによっては、トイレを我慢して揺れているだけにも見えたが、いや、違う、彼は確かに踊っていたのだ。ヘッドホンを付けているわけではない。彼は、とにかく、意味もなく、左右に揺れていたのだ。

私は、その踊りの邪魔をしないよう、横からそっと、店員に向かい、カツ丼をオーダーした。店員は、その男のことなど気にもせず、愛想良く私に応対した。私がお金を払い、レシートとおつりを受け取る合間も、彼は、一心不乱に揺れ続けていた。ふと、彼の顔を見ると、遠い目をしながら微笑んでいた。

普通、弁当を待つ間、客はカウンターから離れて遠巻きに自分が呼ばれるのを待つものだ。カウンターに密着していては、他の客の邪魔だからだ。私も、そのセオリー通り、店の片隅に移動し、踊る彼の後ろ姿をジッと見ていた。と、彼が不意に振り返った。彼は、微笑みながら、左右に揺れながら、総菜コーナーへと移動した。そして、再び、左右に揺れ始めた。彼的にはノリノリなのだろうか、表情は「絶叫調だぜっ!」だった。

彼は、総菜コーナーを一通り眺めると、再び、カウンターの前に戻り、またまた左右に揺れ始めた。無言で揺れ続けた。

少しして、店員が、お弁当を袋に入れて、彼に渡した。すると、彼の踊りはぴたりと止んだ。彼は、お弁当を持つと、今度は無表情な顔をして、ずんずんと店を出て行った。

許せないことがある。

空いている店内で踊りくらいは許そう。私が許せないのは、彼が、昔の私にそっくりだったことだ。髪の毛は黒く、だらしなくTシャツを着て、小太りで、意味もなく汗をかいていて、顔と頭がべとついていた。もしかして、私も酒を飲んでいる頃、あんな風に滑稽だったのだろうか。彼からは、酒の臭いがしなかった。しらふの酔っぱらいなら、なおさら怖い。

帰宅して、カツ丼をむさぼり食った。炭酸水をゴクゴクと飲み込みながら、心の中で決心した。明日から、部屋の大掃除をしよう。自炊ができる部屋にしよう。自炊をしよう。あと…、少しやせよう。

さあ、明日がもうすぐ始まる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月 6日 (土)

60年目の夏

私が初めて広島を訪れたのは、中学生のときだった。きっかけは、テレビで原爆の特集をやっていて、子ども心に衝撃を受けたのだ。その頃の私にとって、日本史とか世界史は、物語とレベルが変わらなかった。自分の生活とは遠いものだったし、一瞬のうちに何万人も殺してしまった原子爆弾なんて、リアリティがなかった。どうしても私は、自分の足で広島に立ち、実物の原爆ドームをこの目で見たかった。その夏、貯金していたお年玉をしこたま放出して、新幹線に飛び乗った。

当時、名古屋始発のこだま号、広島行き。

広島駅を降りて、駅前から路面電車に乗った。10分くらいして、車窓の右側に広島市民球場、左側に原爆ドームが見えてきた。

原爆ドームを目の前にして、私はただただ、ぼう然と立ち尽くしていた。どうすることもできずに、持っていたカメラのシャッターを切り続けた。その後、平和記念資料館を一通り回った。展示から、初めて原爆の惨状を目の当たりにした。被爆者たちの体験談を読み、愕然とした。資料館の前にある石碑に、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻んであった。繰り返さないためには、どうしたらいいのか。中学生の私には、さっぱり分からなかった。世界には、私たちの力ではどうすることもできない脅威があることに気づかされた。

それ以来、「核兵器廃絶」は、私の人生に背負わされた大切な言葉である。

私たちにできることは、何か?

鶴を折る人もいる。署名を集める人もいる。祈る人もいる。デモ行進をする人もいる。歌を唄う人もいる。演説する人もいる。

答えは無数にある。どれが正しくて、どれが悪いとは言えない。

私は、とりあえず、こんなblogの片隅から言葉を残したい。

いかなる規模のいかなる数の核兵器を保有する国と団体へ。核兵器をすぐに廃絶してください。

そして、原爆の犠牲となり亡くなったすべての被爆者の皆さんへ。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

To the country and organization who possess the nuclear weapon of what kind of number of what kind of scales Please abolish nuclear weapons immediately. To and you, all the A-bomb victims that fell victim to an atomic bomb and passed away "-- please sleep peacefully -- since   fault does not repeat -- "

地球の空に、キノコ雲はいらない。「そらめく.com」は、核兵器のない平和な空を目指し、そのための大切な言葉を発信していきたい。

秋葉忠利広島市長の「平和宣言」

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年8月 5日 (金)

学校給食

D1000009私は、学校給食が大嫌いだった。それは、小学校を卒業してから20年以上過ぎた今も変わりない。たまに、雑誌やお店で昔の学校給食の特集を組んでいたりして、みんなが懐かしそうに思い出を語っているのを見ると、ただただ、胸焼けがして、目を覆いたくなる。

私の小学校時代の担任の先生は、給食を絶対に残させない主義だった。少しでも残すことは許されなかったし、午後の授業時間中も、夕方日が暮れる直前まで、すべて食べきるまでは放置された。なんせ、我が家では家族の偏食が著しかったから、学校ではかなり多くの、食べたことのない食べ物が登場して、私を困らせた。それに、当時から躁鬱の波が大きかった私は、お腹がすいて仕方ない日と、食べ物が喉を通らない日とが、かなり大きく差があった。

だから、学校給食には、トラウマしか残っていない。

今、私は、かなり多くのものを好き嫌いなく食べることができている。一番大きな要因は、学校給食ではなく、家を離れて一人暮らしを始めたことにある。食わず嫌いだった食べ物を数多くチャレンジして、自炊をして自分で料理する楽しさを覚えてから、食べ物の好き嫌いはほとんどなくなった。

学校で、なぜ、あんな無茶な見せしめのような、強制完食が行われていたのだろうか。無理矢理食べさせられることでその食べ物をますます嫌いになる。食べられないから冷める、さらに乾く、よってまずくなる。食べて、嫌いになる。悪循環の繰り返しである。最近、学校の先生に聞いたら、今は強制的に食べさせることはしていないのだそうだ。当たり前だと思う。

記者の仕事をしていると、学校給食をめぐる様々な政治的な動きがあったりして、現場を取材することが多い。が、理屈では、安全で美味しい学校給食を守らなければならないと格好付けてみても、やはり子どもの頃のトラウマがジャマをして、心のどこかで、「学校給食なんて潰してしまえば楽になる」と囁く悪魔が、私の中に住んでいるのだ。学校給食さえなければ、私の子ども時代は、かなり楽しかったに違いない。好き嫌いはもっと早くなくなっていたかもしれない。「食」に対するトラウマは、根深いのだ。

ところで、話は変わるが、私の母のみそ汁は、とにかくまずい。理由は、意味もなく、やたら薄いからだ。大学時代、一人暮らしを始めて、生まれて初めてコンビニに買い物に行き、カップのみそ汁を買って、部屋で食べたときの感動は、今も忘れない。

みそ汁って、こんなに美味しいんだーっ(泣)

私にとって、家も学校も、「食」は苦行でしかなかったのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

眞鍋ねえさん、オイラせつないっす

D10000062日前にも紹介した眞鍋かをりねえさんの『ここだけの話』で、眞鍋ねえさん自身との相性診断ができるよう、「恋愛頭脳」へのリンクがはってあった。もちろん、即、トライした。

恋愛観の分析結果は、なぜか前回とは違っていた。総合判断は「最適」。恋愛観レベルは「聖人(14段階中2番目)」。恋愛観支持率は「99.4%」。恋愛スタイルは「中期低テンション恋愛型」(ここだけ前回と同じ)。印象は「接しやすくて表裏がなさそう」。総合コメントでは、「mori-chiさんの恋愛観は、絶妙なバランス感覚を持っています。mori-chiさんはよく恋愛相談を受けませんか?mori-chiさんに相談すればまるでイチローのように高い確率でヒット(素晴しいアドバイスや名言)が返ってくることが期待されます」などと素晴らしい評価をいただいた。

うーん。おそらく、前回の結果を見て、オイラなりに学習して、今回は優等生の答えを出してしまっていたということでしょう。オイラ自身がそんなに成長したわけではない。

さて、問題は、眞鍋ねえさんとの相性である。

オイラと眞鍋ねえさんとの相性は、「やや良し」(相性64%)であった。

「自己犠牲の精神」については、オイラが眞鍋ねえさんに見返りのない愛を注ぎ、いずれ朽ち果てるそうだ(笑)。

「ルックス」については、眞鍋ねえさんがルックスばかり気にし、オイラは気にしない。よって、対立するらしい(泣)。

「財力」については、オイラはお金に疎く、眞鍋ねえさんはお金も重要。トラブルになるようだ(号泣)。

「駆け引き」については、オイラは完全に眞鍋ねえさんの尻に敷かれて、逃亡を企てるらしい(爆)

「許容と束縛」については、眞鍋ねえさんがオイラを好きかどうか、疑わしく感じられる(泣)。

「将来への意識」については、眞鍋ねえさんがオイラを使い捨てしそうな空気が漂うらしい(号泣)。

ま・・眞鍋ねえさん・・・、オイラを使い捨てないでくれ~!(笑)

せつない夜が更けていく。そう言えば、使い捨てられる青春だったなあ(謎) たまには、こんなブログっぽいブログで。もう日付が変わってしまった。おやすみなさい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月 3日 (水)

公設市場

D1000001私の故郷には、戦後すぐに開設した公設市場というのがあって、スーパーのように生活用品や食料品などを売っていた。築地市場のような、卸問屋が仕入れに行くような市場ではなく、一般の庶民が買い物できる場所だ。当時は、今のようにスーパーは多くなくて、買い物といえば近所の手軽な「コーセツ」に行くのが、母親や祖母の日課だった。

公設市場には、怖いおじさんが営む精肉店があった。私が祖母の買い物についていくと、そのおじさんは、「そんな少ない量、売れるわけないだろ」「ばばあ、早く決めろ」「1万円でおつりなんて出るわけないだろ」などと、客であるはずの祖母を罵った。彼は、祖母を罵るだけでなく、来る客、来る客、人を選ばず悪態をついた。こんな傍若無人なお店が普通に営業しているなんて、不思議な市場だった。私は、子供心にこの男に恐怖と憎しみを感じていた。他の店ではありえない安さが売り物だったらしい。

先日、私は、昔実家があった場所へと帰る機会があった。旧東海道沿いにある私の実家は、すでに人手に渡ってしまい、昔の面影はなかった。でも、周りの家々はほとんど昔のままに残っていて、子どもの頃のままだった。遊んだ公園、通った小学校、肝試しをした神社、通学路・・・何もかも残っている。公設市場も、あの頃のまま残っていた。だが、市場はすでに廃止されていて、さび付いたシャッターが降りて、閑散としていた。

懐かしく市場の建物を眺めていると、ふとシャッターの一部が開いていることに気づいた。よく見ると、看板が出ている。あの傍若無人なおじさんのお店だ。肉屋はまだ営業していたのだ。コロッケは50円、ハムかつは60円、串カツは60円。店の入り口には1台の自転車が止まっていた。あのおじさんは、今、どうしているのだろうか。奥は薄暗くて、中はよく見えなかった。入口を開けて入れば、彼はいるかもしれない。子どもの頃の罵声がよみがえって、躊躇した。

この公設市場には、肉屋だけが残って営業していた。地元自治体のホームページで確認したら、公設市場の一覧からこの市場は消えていた。市場の灯が消えたあとも、彼は頑固に立ち退かずに、今も安くて美味しい肉を売り続けている。私は結局、おじさんには声をかけず、その場を立ち去った。帰りの電車の中でそのおじさんのことを思い出して、あの怖いおじさんを少し応援したくなった。

彼は、今も、たった1人で世界と戦っている。

その闘いがどれほどの意味を持つのか、私には分からない。でも、長い人生を生きていく中では、そうやって、どうでも守らなければならない何かを守るため、たった1人で世界に闘いを挑むときがあるのかもしれないと思った。

私は、両親が借金を抱えて夜逃げして、故郷も失ってしまった。何もかも失ってしまった故郷の地で、私の思い出をたった1人で闘いながら守っているのは、両親でも友達でもない、あの傍若無人な、憎むべきおじさんだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月 2日 (火)

眞鍋ねえさんに誘われるがまま…

D1000180おそらく日本のblog界最高峰の眞鍋かをりさんの『ここだけの話』を読んでいたら、自分の恋愛観を測定してくれるサイトを紹介していた。

私の診断結果は、総合判断が「適」。恋愛観レベルは「大人(14段階中5番目)」。全世代から見た恋愛観支持率は、「73.4%」。恋愛スタイルは、「中期低テンション恋愛型」。印象は、「ちょっと騙されやすいお馬鹿さんなのかなとなめられてます」。恋愛レベルではなく、恋愛「観」レベルなので、少し微妙だ。優れているのかどうか、今ひとつ分からない。

37年間も生きているが、申し訳ないが、恋愛について語るだけの経験も知識も薄っぺらだ。ここのところ1人がすっかり板に付いてきて、1人でいるのが当たり前になった。たまたま女性とご一緒させてもらうことがないわけではないが、一通りの食事やら何やらを終えた後、「じゃあ」と1人で帰ろうとする自分がいたりして、唖然とする彼女以前に、何より自分にビックリする有様だ。

「帰るのかよっ!」

人は年齢を重ねるほどに臆病になる。鈍感になる。アホになる。

この数ヶ月で3キロほど太った。GAPのSサイズのTシャツに限界を感じるようになった。

眞鍋ねえさん、私は、1人で甘酸っぱく夏を迎えるよ。人は理屈で恋をするわけではないのだよね。「適」でも「大人」でも、この緩み始めたウエストまでは、カバーできないのだ。せつないね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月 1日 (月)

ごめん

D1000178結局、君にちゃんと謝ることもできないままに、君と離ればなれになって、もう、1年8か月が過ぎた。本当は、あのとき、無駄だと分かっていても、君を引き留めるべきだったのかもしれない。最後まできれいな思い出を残そうと悪あがきしたのは、何よりも、それまで歩いてきた道に対する後ろめたさがあったからだと思う。どんなにきれいな言葉を並べても、たぶん、言い訳にしかならないし、私の独りよがりだったんじゃないだろうか。12月24日、別れ際に、君の頭にポンと手を置いてなでた、あの手のひらには、未だにあのときの感触が残っていて、今も私は、あのとき、あの場所に立ち尽くしたまま、身動きが取れないでいる。

君の文章は、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような支離滅裂なもので、思うがままに思いつくまま言葉を並べて、とても売り物にはならなかった。そこに赤を入れるのは、最初のうち修行以上のなにものでもなかったが、なぜか他人の書いた文章には思えず、だんだん愛着がわくようになってきた。後になって気づいたのは、それはおそらく、君の文章が、私を真似たものだということ、私の弱点をありのまま受け継いでしまっていたのだ。違ったのは、君は、ジャーナリズムを心底信じて文章を書いていたのに、私はどこかでそういう抽象的な言葉が信用できず、心の中に秘めた「反ジャーナリズム」のようなものから抜け出せなかったのかもしれない。

結果的に、その違いは、私だけが生き残り、君が去ってしまうという、最悪の結果をもたらしてしまったような気がする。私は、一番君を守らなければならなかったときに、自分だけを守ろうとして、君を傷つけることになったのではなかろうか。本当は、君といっしょに戦うべきだったのに、自分だけが生き残ろうとしたのではないか。私は、自分でもイヤになるほど、口先ばかりで何もできない人間だったと思う。

風の噂に、君が再び、新聞っぽいものを書いていると聞いた。私も、抜け殻のまま、それっぽいものを書いている。今も、新聞の小さな余白に、君の面影を感じることがある。あれから、私は、酒をきっぱりと断ってしまい、しらふの人生を歩んでいる。君はまだ、あの豪快な飲みっぷりは変わらないのだろうか。たぶん、私は、あの頃の自分を取り戻すことは、もう、できないと思う。でも、私は、いつまでも、あの瞬間のまま、前に進むことができず、そらめいていることだろう。

君は、今日も、あの頃と同じように、私と同じ空の下で元気よく東へ西へと走り回っているのだろうか。太陽が地球を何千回も回り、あの瞬間が遠い記憶の彼方に遠ざかってしまったとしても、私は、空に手をのばして、あの瞬間に戻ろうと背伸びをしていることだろう。

いつか、涙を流さなくても、この思い出が語れるようになったら、そのとき、私は、この後悔を生きる力にして、前に進むことができるような気がする。あの瞬間、止まってしまっていた世界は、間違いなく動き出す。ようやく私は、私のために生きることが出来る。どこかの空の下で君と出会うことがあったら、今度は、あの瞬間できなかった、握手をするため、私は笑顔で君に右手をさしだすことだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年7月 | トップページ | 2005年9月 »