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2005年7月13日 (水)

スピッツとイズミカワソラ

D1000141どうして、あんなに、朝から晩まで、年中無休で、「ソラ」「ソラ」と騒いでいられたのか、今さらながらにして恥ずかしい限りなのだが、とにかくイズミカワソラちゃんとの出会いは、何か運命的なものを感じたんだ。

最初は、MXテレビで「電リクBB」という番組があって、毎週火曜日にソラちゃんがパーソナリティとして出演していて、何だか毎週見るようになってしまったのだ。東京に来て、生の関西弁に出会うのは、そんなになかったから、番宣でソラちゃんがほんわかしゃべっているのを見て、ちょっと懐かしかったのだろうと思う。生放送で、ファックスのリクエストを受け付けて、アーティストのプロモーションビデオを流すという番組。調子よくペラペラしゃべる関西弁が何ともホッとしていた。この頃、まだ1998年、何とまだ20世紀である。

1999年の春に、ソラちゃんのレギュラーも終わり、あの癒し系なほのぼの関西弁に会えないと思うと少し寂しかった。最終回の映像は、未だに我が家にビデオとして残っている。その最終回の一番最後に、彼女は、「最後に私の一番好きな曲を流させてください」と、スピッツの「楓」のPVを流した。ソラちゃんに出会うまでは、さっぱり音楽音痴だった私は、そのとき初めてスピッツの音楽とも遭遇した。

それから1年ほど過ぎて、彼女が所属レコード会社との契約が切れ、2000年3月にインディーズレーベルを立ち上げて、「普通電車にのって」というマキシシングルを出すことになった。今でさえ、インディーズでデビューするのは当たり前になったけれど、当時、メジャーの契約が切れるというのは、即引退みたいなイメージがまだ強くて、もう、ソラちゃんの唄にも出会えないのかなあと思っていたから、インディーズでの復活はホントに嬉しかった。ここからは想像になってしまうのだが、きっと彼女も、相当苦しんだ上で、それでもやっぱり歌い続けようと決意したのだろう。

彼女は、同志社大学卒業で、大学生活が少しだけ、私が京都の大学に在学していた頃と重なっている。普通は重ならないはずなのだが、私は7年も大学に通ったので、最後の数年だけ。もしかすると、京都のどこかですれ違っていたかもしれない。その後彼女は、大阪の保険会社に就職し、OL生活を送っていた。しばらくして、やはり唄を歌いたいと、上京し、1998年2月14日に最初のシングルCDを発売する。私のほうはというと、1994年にドラマのシナリオライターを目指して上京し、何の関係もない会社に就職し、それでも頭の片隅で夢を追っていた。

これは、こっちの勝手な思いこみでしかないのだが、私は、彼女に対して、自分が実現できなかった夢を託していたような気がする。メジャーの道を進んだものの、契約が切れ、それでも歌い続けると決めて、インディーズから再デビュー。そんな、よみがえっていく彼女を見ているのが嬉しくて、すっかりはまってしまっていたのだ。自分の夢も、どこかで道が開かれるような気がしていた。

彼女は、2000年9月に、「泉川そら」から「イズミカワソラ」に改名し、「浮かれビート地下1階」をリリース。ソラちゃんの、今日に至るまでの快進撃?は、おそらくこの辺からスタートしたと思うし、この時期くらいから、私も、ライブというライブはすべて顔を出すようになった。首都圏はもちろん、仙台、宇都宮、名古屋、大阪、京都、岡山、広島、松江・・・、とにかく、炎の全国行脚に明け暮れた。

そんなわけで、今日のBGMは、スピッツの「正夢」。スピッツの唄を聴いていると、ふと、全国行脚に明け暮れた、あの頃が懐かしくなる。今、生のソラ唄に触れる機会は減ってしまった。ソラちゃんとの出会いは、今、ここに続く、たくさんの出来事につながっている。あの頃の自分は、もうここにはいないけれど、今ここにいる自分は、あの頃からつながっている。ソラちゃんが導いた、というのは大袈裟だが、そのくらい、私は、イズミカワソラにぞっこんなのである。

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